大学卒業後、教育系の出版社、そして島根県海士町の公営塾で働いていた的場陽子さん。29才で憧れていた海外留学!留学先はデンマークです。海外での暮らしや学びをデンマークからお届けします!学生時代に留学するかどうか迷っているというみなさん、社会人になってからの留学を選択肢に入れてみては?(過去の記事はこちら→『立ちどまれるって素晴らしい!私が日本から離れてデンマークに行った理由』)
持て余していた自分らしさ
そのあと、しばらく私はむき出しになりすぎた心の取り扱いに少し困るくらいでした。例えば、散歩している時に、自然の美しさが眩しすぎて目がびっくりする、とか。今までも綺麗だな、と思ってはいたのですが、こんなにも木々に、草に、太陽に生命力に溢れているんだ、と今更ながらに気づきました。
そして、庭で遊んでいる鶏に、近所で見かける馬や牛に愛おしさがこみ上げるようにもなりました。そうすると、不思議なことに、ホイスコーレで生活を共にしている友人たち、一人ひとりがとても美しかったことに気づいたのです。
みんながそれぞれに魅力的であることは以前からもわかっていたつもりでした。けれども、「優しい」「顔が可愛い、かっこいい」「スタイルがいい」「かしこい」「しっかりしている」「才能がある」そんな理由があるから”美しい”のではなく、ただみんながそこに存在しているだけで美しいんだな、と感じたのです。そういう感覚が、食事を食べ終わって少し周りを見渡した時だったり、朝礼で歌を歌っている時だったり、夜団欒している時だったりに不意に湧き出てきました。
そうした瞬間に私は、自分の居場所があるかなんて気にすることもなく、自分の将来について思い悩むこともなく、ただその柔らかな感覚に浸っていました。ただそれだけで、とても幸せでした。そして、こういう時間を、こういう場所を日本でもつくりたい、という感情が自然と湧き上がってきて、自分の中心を温かくしてくれているのを感じ始めたのでした。
▲思い出すことが多い食堂の風景。
自分の中になにかが灯った、それがいつだったのかははっきりと覚えていません。けれども、その火は自分の力でつけたものではなく、あの空間でみんながいたからこそついたものだ、と感じています。ホイスコーレ生活にはいつか終わりがきます。「終わり」があるからこそ、ホイスコーレは楽園なんだ、と卒業後に言った友達もいました。
ホイスコーレの卒業式は、意外にもシンプルに執り行われます。私が卒業した時はまだ3ヶ月残る生徒たちもいたので、卒業組と継続組の二手に別れました。まず、全員で一つの輪になって、手を繋ぎながら昔から受け継がれて来ている旅立ちの歌を歌いました。そして卒業生が校長のElseに呼ばれ、中心に出ていき、修了書をもらいます。
学校のプリンターで印刷した、簡素な紙。けれども、この5ヶ月がこの紙一枚では表しきれないような厚みに満ちていたことをその時に感じました。卒業生が外を向くと、卒業組でできた小さめの円とそれを取り囲むようにしてできた継続組の大きめの円の2重の円が向かい合うような形になりました。目の前にいる同級生、一人ひとりとそれぞれに色鮮やかな思い出があるというのはとても不思議な感覚でした。そのあと、一人ひとりと時間が許す限りハグをしていきます。
▲いつもBeingだったSøs。演劇の授業の1コマ(左から2番目) (photo by Kovacs V. Sara)
私が尊敬していた女性の1人にSøs(スス)という先生がいました。彼女の演劇の授業を私はとっておらず、接点があったのはリビンググループだけ。けれども私が最も影響を受けたといってもいい存在だったのは、彼女から発される言葉の一つひとつに、声の最初から最後までに生命が宿っているようなそんな女性だったからです。
長くの間、一人演劇をしながら、色々な縁を経てホイスコーレの先生となった彼女は、何かを教えるということは毛頭ない様子で、常に私たちの前にいました。彼女はいつも自身の人生で導き出した、彼女なりの哲学を全身で私たちに伝えてくれていました。スマートフォンに人生を奪われるな、ということから、クリエイティブに生きること、人を赦すこと、についてまで。
そんなSøsが最後のハグの時に私に伝えてくれた言葉は、私の心が弱りそうになった時、いつも私を支えてくれています。「Yoko, You are beautiful.」彼女はただそれだけ、私に言い、包むようにハグをしてくれました。今まで誰に言われたどんな褒め言葉よりも嬉しい言葉。なぜなら、私もその時自分が“美しい”存在なのだと、生まれて初めて心から思っていたからです。
ホイスコーレがとても愛おしく、大切な空間でありえる理由は、学校内の人間関係や環境が、外界とは隔離された場所であるからかもしれません。そして必ず終わりがくるから、毎日毎日を丁寧に過ごそうとし、その過ぎ去ってしまった日々が切なさを伴った思い出として輝くようにも思います。
私がホイスコーレ時代にルームメイトの次に一緒に時間を過ごしたハンガリー人のZofia(ソフィー)は、ホイスコーレが終わってしばらく経ってから会った時、「ホイスコーレの外で生きるのは苦しいね」と言いました。みんな多かれ少なかれ、ホイスコーレの環境とこれから生きていく社会のギャップを感じていたのでした。大学進学を選択したり、就職先を探し始めたり、ファームでボランティアを始めたり。まだ自分の行き先が見つからず学校にボランティアとして残った子もいました。
▲よく散歩を一緒にしたZofia。
コペンハーゲンに移ってから少しして日本に一時帰国した時、自分の中の準備がまだ整っていないことを痛感した私は、またデンマークに戻りました。少し先を考えると揺らぐ日々を今も日本で送りながら、私は一体なにをこの1年に得たのだろうか、と考えています。
大学生時代にホイスコーレを経験した、同級生の沙織ちゃん、あすかちゃんは、それぞれ語学が上達したり、自分自身で選択する力がついたり、色々な背景の人たちとコミュニケーションせざるを得ない学校生活で成長していったように思います。二人の持つ雰囲気は、卒業後再会する度にぐっと大人っぽくなっていきました。二人のように、“目に見える”成長をしなかった私。ホイスコーレでなにか履歴書に書けるキャリアを積み重ねた訳でも、スキルを身につけた訳でもありませんでした。
けれども、なにかが自分の中に根付いている感覚が今もあります。それは例えるなら、自分という一本の木の根が少しずつ地中に伸び、張り巡らされていく感覚が一番近いのかもしれません。地表の上の枝葉が生い茂るわけでもなく実が成るわけでもないので、それは周囲からも、自分にすらも見えない“変化”。しかも、もどかしいぐらいゆっくりのテンポで。
その“変化”にまったく気づかず、ホイスコーレが終わってもデンマークで過ごした日々はなんだったのだろう、とその時間を無意味に感じたことすらありました。けれどもホイスコーレを通じて自分の感性が育ち広がった結果、その感性で捉えるごく普通の日常が少しずつ以前とは変わってきた、そんな風に思うのです。
▲卒業後に帰った母校の庭で、同級生たちとボランティア。日常にある美しさ。
これから受けとめていく世界が少しずつ変わっていくだろうことを感じ始めた最近、この感性をどう扱っていいのか、困る時もあるぐらいです。母が練習しているピアノの音色を聴いたり、小説を読んだりしながら、不意に涙ぐみそうになったり。何気ない人とのやり取りで、いいようのない面白さや喜びに満たされるようになったり。それらは仕事で他人から評価されたり、欲しかったモノを手にしたりするのとはまったく異なった満足感や達成感でした。それらを感じる時、私は生物として生きているんだなぁ、とふと思うのです。
もうすぐ31歳、住所不定、無職。こんな風に人生を送るなんて、大学受験に合格した時、第一志望の会社に内定をもらった時、意を決して転職した時、夢にも思っていませんでした。しばらく仕事から、日本の文化や風習から離れた私が、これから働き生きていく場所を探すことも不安だらけです。
けれども、きっとこれからなにか挫けそうなことがあっても、ホイスコーレで出逢った人たちが私にくれた”生きた言葉”が私を支えてくれるのだと思います。”私”として、この感性と共に生きていくしかない。そう思った自分がこれほどまでにしぶとく、また前に進もうという気持ちになれるなんて、去年は思ってもいませんでした。
「人生に立ちどまれるのはデンマークだからだよね。日本ではまだまだ難しいね」とは言いたくない。だから、私は周りと違ってしまうことを怖がっても、何度でも立ちどまって、自分と相談して、これからの生き方を模索していこうと思います。そして、いつか日本のホイスコーレをつくりたい。「今、立ちどまって考えてるんだね。素敵だね!」そんな会話が普通に言える時代が来ること願って、このコラムを終えたいと思います。