大学卒業後、教育系の出版社、そして島根県海士町の公営塾で働いていた的場陽子さん。29才で憧れていた海外留学!留学先はデンマークです。海外での暮らしや学びをデンマークからお届けします!学生時代に留学するかどうか迷っているというみなさん、社会人になってからの留学を選択肢に入れてみては?(過去の記事はこちら→『立ちどまれるって素晴らしい!私が日本から離れてデンマークに行った理由』)
コペンハーゲンでの日々
ホイスコーレを卒業した後、コペンハーゲンに拠点を移し、私のデンマーク生活は合計約1年に及びました。そして今、日本でこの原稿を仕上げています。この期間で私が得たものはなんだったのか。それらを言葉にする前に、ホイスコーレ卒業後の私の状況を少し書きたいと思います。
2016年2月末に約5ヶ月間の学校生活を終えた私は、そのままデンマークに残ることにしました。ひとまずコペンハーゲンにて無料で通える語学学校に通うことにしたのです。取得していたのがワーキングホリデービザだったのでビザを切り替える必要もなく、友人づてで生活できる場所も見つかり、ほどなくして新たな場所での生活が始まりました。
しかし、コペンハーゲンでの生活は思っていた以上に苦しいものになった、というのが率直な感想です。歴史を感じる街並を眺めながら朝早くに徒歩で語学学校にいくことすら楽しかった最初の日々。人生で“やり残したくない!”と思っていたことを今実現している。そんな達成感もありました。このままデンマーク語がゆっくりでも上達していったら、そのうちデンマークでも仕事が見つかるかもしれない。そうなったら、もう少しデンマークでの自分に自信がつくかもしれない。そんな期待もありました。
けれども、自分が期待していたより上達しない語学。次第に私が感じ始めたのは、自分のペースが徐々にわからなくなっていく、そんな感覚だったのです。
▲コペンハーゲンの家の近くの風景。運河に浮かんでいる船には人が住んでいます。
自分のペース
ペースが狂う、そんな感覚を持ったたことは以前にもありました。海士町に住んで2年ほどが経ち、友人の結婚式で東京に上京した時のことでした。限られた滞在期間中に多くの人と会いたいと思っていた私は、複数の予定を1日に入れてしまっていました。予定と予定の間の移動をしながら、突如として身体と頭がこの場所のペースに追いついていないな、と感じたのです。
ホームを移動しながら、自分以外の周りがスーっとスローモーションで流れていくような感覚を味わいました。実際に立ち止まっていたわけでもないのに、私を包んだその感覚は、私はこの東京という場所でもうスピードが異なってしまったんだな、という疎外感も含んだものでした。
自分のペースが速い方ではない、ということは、幼いころからどこかあったように思います。運動が苦手な私は、家で本を読んでいる方が好きな子どもでした。またなにかを決めるまでも非常に遅く、現状に不満を持っていてもそれを改善するために動いたり、環境を変えたりすることはとても苦手でした。
特に高校時代は進路に関して母親と大きく対立し、高校でも思うように振る舞えない閉塞感を抱えていた私は、とにかく毎日が自己嫌悪と母親に対する愚痴でドロドロ。大学生以降の私を知っている人は、もしその中学高校の6年間を知ったら別人のような印象を持つかもしれません。
高校時代までの苦い経験をもう味わいたくないと思っていた私は、その反動からか大学時代は積極的に外に出て多くの人と出逢い、自ら企画をして楽しいことを実行し、合わないと思ったことには見切りをつけ、愚痴になる前に新しい環境に移るようにしてきたのです。
その大学生以降に掴んだフットワークとペースは、幸いにもその後選んでいった場所では大方功を奏していた(ように自分では感じていました)。じっくりなにか一つのことに取り組むということはできなくなっていたのですが、いくつかの業務を並行して進めるということはそれほど苦ではなかったのです。
私の性質
しかしホイスコーレでの生活で、自分の本来持っている性質が徐々に染み出てくるのを私は感じていました。例えば、時間があれば部屋で自分ひとりの時間を確保して、日記のようなものを書いたり、編み物をしたり、学校の周りを散歩したり、時折無性に本が読みたくなって前の生徒が置いていった日本語の本を貪るように読んだり。ポジションも業務もない自分はこういうことに時間を使うのか、と気づきました。
選択していた絵画の時間で簡単なセルフポートレートの書き方を習ったあと、私はもっと時間をかけてセルフポートレートを描きたいと思うようになりました。じっくりと時間を使って自分の顔を描きたい。シンプルなその欲求に突き動かされ、最後の2ヶ月のほどはほぼ毎週末を使って1枚の絵を描き上げました。
セルフポートレートという、嫌でも自分の顔を常に見つめ続ける作業を通じて、私はもうこの顔と身体でこれからも生きていくしかないんだな、というある意味諦めに近い感情を持ったのです。それは、前回の最後に書いた、自分を愛おしく思う感覚でもありました。
▲一番時間を過ごしたアトリエの一角
作品を通じて染み出てくるもの
私のホイスコーレは芸術系の科目(音楽、ダンス、演劇、絵画、陶芸など)が多かったので、Café nightと呼ばれる、生徒が自分で作曲した曲や振り付けしたダンスや寸劇を発表する場が隔週でありました。また、オープンハウスと呼ばれる授業参観も半年に1回あり、生徒の保護者やそのホイスコーレの入学希望者に対して、生徒たちが作品や授業内容を発表することも。
私はそういった発表の場を通じて、友達がどういう人でどういう感性を持っているのか、を自然と知っていきました。そして同時に、友達そのものが染み出た作品に接した時、私自身がどのように反応するか、を楽しんでいました。それはとても楽しく、満たされたひと時でした。
同じく留学生グループにいた一人、ハンガリー出身のTamas(タマシュ)は私に大事なものを思い出させてくれました。彼は、幼少期からピアノ、その後お父さんから教わり始めてギター、義理のお兄さんとバンドを組み始めてドラム、といくつかの楽器を弾きこなす、音楽の才能に恵まれているというのはこのことなのか、と思わずにはいられないような男の子でした。彼は音楽の授業を主教科にしており、私とは絵画や陶芸の授業が重なっていました。高校を卒業したばかりで積極的そうな見かけに反してとてもシャイな彼は、初めての留学生活に最初慣れるまで時間がかかっていたようです。
私たちのホイスコーレ生活も終わりに近づき始めたあるCafé Nightの夜、彼のギターが始まって、時が止まるような感覚が私を包み込みました。音が空気にゆっくりと染み込んでいく。そんな彼のギターに私は久しぶりに、頭で「すごい」と考えるよりも先に、身体が「美しい」と感じていたのです。その時期の私は、心につっかえていたものが徐々に溶け始めていました。つっかえていたものは膜のように皮膚のすぐ上のところに張り付いていた、とでもいうのでしょうか。その膜が剥けて、むき出しの皮膚の上を彼のそよ風のようなギターが撫でていく、そんな心地よさに私は感動していました。
▲音楽専攻の生徒たちの発表会。ギターを弾いているのがTamas(中央右) (photo by Kovacs V. Sara)
その日から数日経ち、夜みんなで焚き火を囲みながら外でお茶を飲んでいる時、私はふと気づいたのです。私は、“心”を持っているんだな、と。しかも、とても感じやすい心を。そのせいで今まで何度も苦しんできたことにも気づきました。
自分に自信が持てず、母親に周囲に言いたいことを抑えていた高校生時代。その反動から活動的になり、とにかく自分を成長させたいともがき自己主張を繰り返していた大学生時代。仕事に面白さを感じながらも、やりたいことと少しずれている感覚がぬぐい去れなかった会社員時代。自分の人生で天職じゃないかと思える仕事に巡り合えていたのに、周りに必要とされる自分であるために一生懸命すぎた海士町時代。
自分の感受性のせいで苦しかったこと、悲しかったこと、自分の感受性のおかげで楽しかったこと、嬉しかったことが走馬灯のように駆け巡った時、私の目からは知らないうちに涙が溢れていました。頭ではなく、身体が泣いていました。涙ってこんなに自然と吹き出て、温かいものなのだ、と私は初めて知ったように思います。そして、そんな私をJeanne(シェンヌ)が包み込むように抱きしめてくれました。そんな私たち見てTamas(タマシュ)が心配そうに近づいてきてくれました。私は、ようやく自分の感性を取り扱えるようになり始めた自分を実感しました。