大学卒業後、教育系の出版社、そして島根県海士町の公営塾で働いていた的場陽子さん。29才で憧れていた海外留学!留学先はデンマークです。海外での暮らしや学びをデンマークからお届けします!学生時代に留学するかどうか迷っているというみなさん、社会人になってからの留学を選択肢に入れてみては?(過去の記事はこちら→『立ちどまれるって素晴らしい!私が日本から離れてデンマークに行った理由』)
積み上がってしまった壁
9月の終わりから始まった秋学期も約2ヶ月が経ち、デンマークも秋というより冬のような季節になってきた11月半ば、私は突如として壁が自分の目の前に出現した感覚に陥りました。
会話に、徐々に自信がなくなってしまったのです。(この時の私は、デンマーク語の授業を多めに受講してはいましたが、日常会話はほとんど英語で行っていました。)
それまで自分なりに英語を話していて、特別留学前に英会話をしていた訳ではないのに、我ながら頑張っているな、と思っていた矢先のこと。
自己紹介やなぜホイスコーレに来たのか、受けている授業は何かといったような、日本の学校でも新しいクラスで交わすような自分にまつわることから、徐々に毎日の生活に関する他愛もない話に変わっていったころからでした。
最初はみんなの話す速度が早まって聞き取りにくくなってきたのかな・・・そんな風に語学に不慣れなせいだと思っていたのですが、次第に自分がなにを話していいのかわからない、といったことが根本にある戸惑いではないか、と思うようになりました。
この状態に私は相当驚きました。というのも、これまで話の輪に入れないことがなかったからです。
私は大学生の頃から飲み会の幹事やゼミ長、サークルの副部長など大人数を取り仕切ったり、空気をつくったりする役職をやることが多く、自分でいうのもおこがましいのですが、「場の空気を読むこと」は自分のスキルとすら思っていました。
けれども、いざ食事の時間が始まると、本当になにを話せばいいのかうろたえる日々が続きました。
苦痛になってしまった食事の時間
食事は全員で一緒に食べる、というものがホイスコーレ共通の決まりにあります。
私の学校は特に料理に力を入れている学校でもあったので、みんなが着席し、キッチンレディー(料理をしてくれるスタッフ)の説明を聞いてから、“いただきます”をする、という流れでした。
そして、これもまた多くのホイスコーレにある習慣なのですが、食事のあとにメッセージタイムという時間があり、先生からの午後の授業に関するお知らせや生徒同士の情報共有提案などが行われるのです。
つまり、自分の食事が終わっても理由がなければ席を立つことは許されず、会話をしなければいけないのでした。
自分と同じ授業の友人の近くに座ったときは、あっという間に時間は過ぎて行きます。
けれども選択授業が違ったりで、2ヶ月経ってもまだそんなに知らない友人の近くに座ることになった場合、私は自分の空気を消すようになりました。
聞き役に徹する、というより、その場の空気に影響をしないよう振る舞いたいと思っていたのです。けれどもそれは、元々人に質問をしたり話を聞くことを長年してきた自分にとって、場に貢献していないんじゃないか、という罪悪感が伴ったり、自分の居場所がないような、そんな苦しい時間でした。
初めての相談
とある日、ハンガリー人のMark(マーク)という男の子と話す時間がありました。
Markは普段から日本語で「おはよう!」「ありがとう」といった挨拶や、日本人の私たちがよく使う「すごーい」や「かわいいー」といった言葉を絶妙なタイミングで使って場を和ませてくれる子でした。
彼はとても好奇心旺盛で、料理や陶芸の授業中に先生を質問攻めにする子でもありました。
Markの質問タイムが始まると、「またMarkが質問しはじめた、やれやれ・・・」といった様子で、周囲がニヤニヤし始めたり。東欧のアクセントのある英語もジョークでモノマネされるような、そんな愛されキャラのMarkに、私は「どうやって英語を上達したの?最近自分の話したいことが英語でうまく話せなくてしんどいんだよね・・・」と、学校に入って初めて誰かに相談してみたのです。
Markはすごく丁寧に答えてくれました。
日本同様、ハンガリーもヨーロッパの中では決して英語教育が早い方ではないそうです。彼は早くからハンガリー以外での大学進学も視野に入れていたことから、アメリカのアニメやドラマ、映画を見ていたとのこと。
そんな彼が私に1つ質問を投げかけました。「それで陽子は英語を使ってなにを表現したいの?」
それがMarkの質問。
思いがけず、私は答えに窮してしまったのです。私にはたくさん話したいことや、表現したいことがある。Markに聞かれるまではそのように思っていたのですが、実のところそんなにないのかもしれない、とその時に気づいたのです。
けれども、なんとか絞り出して、「自分の感じていることとか、考えていることとか、伝えたいよ。けれどもちゃんと言えるか、とか表現が合っているか、とか考えると言葉が出てこなくなる」と言いました。
するとMarkがくれた言葉は、私の肩にそっと手をおいてくれるような、そんな言葉でした。
私が怖がっていたこと、は?
「陽子、ここには陽子の英語がわからないからといって笑う人は一人もいないよ。僕だって、ハンガリーのアクセントが強いから、時々聞き取ってもらえないし。僕が怖いのは、誰かを傷つけたり、愚かな発言をしてしまったりすることだけだよ。みんな僕たち留学生の話に耳を傾けてくれるしね。自分の英語が1回で伝わらないことは怖くない」
そのMarkの言葉が、私のお腹の中にすとんと落ちる。そんな感覚でした。
そして、その日以降、私が会話するのが少し怖いな・・・と思い始めると、じわじわとその言葉が私の心に染みてくるようになったのです。
自分が何を怖がっていたのか、が次第にわかってきました。「聞いてくれる人、そしてホイスコーレという、今自分が居る場を信頼すること」それが私に必要なことでした。
1日1つの挑戦
とはいえ、「信頼する」というのは簡単にできるものではありません。
元々トラブルや不信感があった訳ではないので、余計にどうして信頼関係がなかなか芽生えないのか、不思議でもありました。周りのみんなはいつもどおり生活をしているだけです。私ひとりが乗り切れずに戸惑っている、そんな状況のように感じてしまっていました。
でもとにかく会話は増やしたい。そしてできるだけ新しい人と話してみよう。それを実践するために、1日1つ、小さな挑戦をする、ということを自分に課しました。それらは本当に些細なことから。
例えば何か親切にしてもらった時、日本人だと会釈や表情で済ましてしまいがちなところを、”Thank you”と大きめの声で、目を合わせて伝えるようにしたり。自分自身の親切にお礼を言われたときは、”You are welcome.”と伝えていきました。
自分がしてもらって嬉しかったことも、真似するようにしました。
Jeanne(シェンヌ)という私にとってかけがえのない友人の一人である彼女は、朝や夜“おはよう”“おやすみ”と言ってくれる時、必ず“Yoko”と添えてくれていました。そんな、ちょっとしたこと。
けれども名前を呼んでもらうということは、自分をそこに存在させてくれるものであり、自分だけに向けられた言葉はとても温かさをくれる、ということを私は彼女に教えてもらいました。
徐々に、食事の時に隣になった人には、“授業どうだった?”や“最近どう?”というように簡単な質問を必ずするようにしました。
今更と思われるかもしれないと思っていて避けていたプロフィール事項(家族構成や出身地のことなど)も、思い切って聞くことに。
会話がそこまで長続きしないことも多々あったけれども、その時のしょんぼりよりも、思いがけず会話が長引いた時の方が数倍嬉しくなってくると、次第に日常会話をそこまで気にしなくなってきました。
会話というのは、空気を壊すことを気にしながらするものではなく、今横に居る人を気にかけることではないか、そんな基本的なことを私は次第に感じるようになりました。
沈黙の先に生まれる空気
デンマーク人が大事にする“Hygge”(ヒュッゲ)という言葉。デンマーク人に“Hygge”ってなに?って聞くと彼らは少し悩みながら、様々な答えをくれます。
それは、「リラックスする時間」であったり、「友達や彼氏、家族とゆっくりする時間」であったり。「お茶を飲みながら話したり、編み物をしたりする時間」「焚き火」と答えてくれた友人もいました。
私はデンマークでの生活を過ごしながら、様々な形のHyggeな時間を周りから与えてもらいました。そして、“安心できる場”“心身ともにゆったりできる時間”というように解釈しています。
Hyggeな空間は静かな場であることが多いように私は思います。おしゃべりが盛り上がったりして楽しい!というより、暗い照明の部屋で静かに音楽を聴きながらたまに話したり、夜空の下で周りの自然を感じながら星を見たり。その場の空気と、そしてその場にいる人の空気を楽しむ、そんな時間でした。
来て間もない頃、デンマーク人は話すのが早くておしゃべりな人が多いし、毎週末にいろんなパーティーがあったりで賑やかな国民性なんだ、と思っていました。
けれど、時間が経つにつれて、彼らが持つもう一つの気質にも気づきました。それは、とても周りにいる人たちの存在を大切にし、受けとめるのがうまいな、ということです。
彼らは沈黙を悪いもの、と感じていません。会話の合間に発生する沈黙は、自分の思考を反芻したり、相手の感情を受けとめたりするために使っているように、私は感じていました。
コミュニケーション力ってなんだろう
相手の存在を確かめるように挨拶の時にハグをしたり、目をじっと見つめて話をしたり聞いたり。
そういうことをとても日常的に行っていて、そしてそれを特別なことだと思っていない様子の彼らと共に生活していて、私はふと、日本で働いていた時によく耳にしたコミュニケーション力という言葉を思い出しました。
私は就職活動の時から、「コミュニケーション力」という言葉が社会に氾濫しているように感じていました。
もちろん、周りにいる人や場面や状況に応じて、多種多様なコミュニケーション能力があるので、一つの意味や定義で絞れないのは当然です。そして、会社で周囲と協力しながら仕事を進める上でそれらが必要なことはわかっていました。
ただ、その能力を伸ばしたいと思いながらも、社会人基礎力として論じられるコミュニケーション力というものは、一体なんなのだろうか、という疑問はつきませんでした。
話をわかりやすく、論理的に伝えることができるのがその力なのか?相手の状況に合わせて話し方や話の構造を変えることができること?はたまたは、聞いた話を端的に理解できること?それに対し自分の意見を言えること?
相手を受けとめる関係
私がホイスコーレで出会った友人たちは、みんなとてもコミュニケーション力が高く、グローバルな人材のように感じていました。
異文化や外国人に対してとても気さくに接してくれるし、言語や文化の上でマイノリティの私たち外国人の目線に立ってくれるのです。コミュニケーションの本質に対する、日本人とデンマーク人の考え方の差異がそこにあるように私は思いました。
それは国籍関係なく、目の前にいる人のありのまま、その人の大事にしていることを受けとめる、ということ。
言葉だけで相手を理解しよう、自分の考えを伝えようとするのではなく、ささいな仕草や目線、自らが発する空気で目の前の相手に耳を傾け、全身で聞こうとしてくれる。そういう彼らの在り方に私は何度となく救われ、勇気づけられました。
そしてそれは、誰か一人が突出して高い能力、というのではなく、しばしばその場にいることでみんなのコミュニケーション能力、場が包容力を持っていると感じることすらあったのです。それはとても不思議な感覚でした。
この場では何をいっても大丈夫、受け止めてもらえる。
そういった場で、エリトリアから地中海をゴムボードで渡ってきて、今はデンマークで難民として生活せざるをえない友人が、今の心境や家族のことを語り始めたこともありました。
そして、デンマーク人の友人がつい去年まで精神疾患を患っていて、長く入院していたこと、学期が始まったばかりの時は人と話すことがまだ苦手だったことなどを、朝の朝礼の時間に話してくれたこともありました。
a kind of Therapy
来学期からの入学を検討している一人のデンマーク人が見学に来た時のこと。
その人と私とハンガリー人のSara(シャーラ)と話していて、見学に来ていた人に「ホイスコーレはどう?どんな場所って感じる?」と質問されました。その時Saraが返した言葉に、私は同じように感じていた人がいたんだ、とびっくりしました。
「ゆっくり時間を過ごして、みんなのことを知って、一種のセラピーみたい」
a kind of Therapy. 人とじっくり人間関係を築いていくこと。もし傷を抱えている人がその中にいた場合、傷を癒す助けになるということ。まさにそれを私も実感していました。
なぜなら、私自身も日本での生活で、それまでの自分の人生で膿ませてしまっていた自分の傷が少しずつ癒えていくのを実感していたからです。
次回は、ホイスコーレの根底にある3つの哲学を絡め合わせながら、私が今までの人生で向き合えていなかったことにどうやって向き合っていったかを書いていきます。