『さいごのぞう』、『ウラオモテヤマネコ』を代表作とする絵本作家の井上奈奈さんに、絵の道を志したきっかけから現在のお仕事までを伺いました。キーワードは「自分の居場所」、「将来のこと」、そして「やりたいことをやってみること」。悩める女子大生の背中を、そっと押してくださる言葉がいっぱいです。
絵の道を志す「原点」と、「自分の居場所」を求めた16歳での留学
絵を描く仕事を意識したきっかけはありましたか?
初めて海外旅行に行ったのがイタリアだったんです。
小学校に入る前くらいに行ったのだけど、イタリアには橋の上で絵を描いている人がたくさんいて、それを見て子どもながらに「私もこういうふうに生きていきたい」と微かに思ったんですよね。
なんとなく、そこがはじまりだったっていう感じがしていますね。
小学生の時にはすでにご自身の原点を感じていたのですね! その後はどのような考えでしたか?
そのあとは…、私とにかく学校が大嫌いで(笑)
もう幼稚園も大嫌いだったし、小学校も高校も振り返ると学生生活全部嫌いだったんですね。
それで、どうにか子ども心に「ここではないどこか」に行く方法を探して、留学を決めました。
決めたはいいけれど、両親は大反対でした。
どのようにご両親を説得したのですか?
交換留学の試験が一年に一回開催されているのを知って、親に内緒で受けて合格したんです。
親には受かってから「行ってきます!」と伝えました(笑)
今思い起こすと、留学をして何かをしたいというわけじゃなくて、“ここじゃないどこか”に行きたいっていう、負の感情のほうが強かったですね。
これを決めたのは高1の時です。
当時は何がそれほど嫌だったのでしょうか?
今は自分の生まれ故郷が大好きだけれど、そのころの自分にとっては、とても小さな町で、校則や、親の保護下にいること自体がとても窮屈でした。
どこかでいつも「ここは自分の居場所じゃないな」って感じていました。
学校でも「ここは居場所じゃない」と感じていたのですか?
そうですね、今から思うと随分とひねくれた子でした。
美術の授業でも、奇抜な絵を描いて先生から「これはこんな色をしてないでしょう?」と言われたりすると「わかってないなあ、この人」と思っていましたね(笑)
他の授業でも、「そもそもなんで学ばなきゃいけないのか」がわからなかったし、無駄な時間のように感じて、興味のない授業はこっそり小説を読んだりしていました。
そこから抜け出したかったのですね。利用した留学制度は高校にあったのですか?
いえ、交換留学制度は学校にはありませんでした。
いまでこそ留学制度は整ってきていますが、私の通っていた高校では初めて学校から出す留学生だったので、先生方にとっても初めてのことで大変だったようです。
私が利用したのは国と国が行っている交換留学制度でした。
アメリカで学んだ「自分の世界の作り方」
留学ではどんな生活をしていたのですか?
3か月間はミネソタに住んで、そのあとは1年間ノースカロライナに暮らしました。
向こうではホームステイをしながら、アメリカの公立高校に通いました。
裕福だったり、そうでなかったり、様々な家庭に受け入れてもらいました。
自分でも面食らったのですが最初のステイ先はトレーラーハウスでした。
キャンピングカーのような小さな家に7人で暮らす中、ホストファミリーにお金を丸ごと盗まれたりといろんなトラブルに巻き込まれました。
その後もステイ先で警察沙汰になるような色々な事件に合い、最終的には学校で美術を教えてくださっていた先生の家庭に「私を受け入れてください」と伝え、自分自身で暮らす家を見つけた形になりました。
凄まじい毎日だったのですね…。学校生活はいかがでしたか?
学生生活は楽しかったですね。
美術教育が盛んな学校だったので絵を描く時間がたくさんあったし、皆とても親切で、日本人の私が物珍しかったらしく、家に招いてくれたりしました。
どのようなお気持ちでしたか?
今思いだすと、映画でも見ていたような1年でしたね。
16歳で日本ではありえないような経験をたくさんして「もうこれから先は良いことしかないんじゃないか」と感じるぐらい辛い時期もありました。
今ではこの時の経験が自分の中で良い教訓になっていて、どこにいたって自分の居場所が見つけられない人間が、逃げるように別の場所に暮らしても何も変わらないだなと思いました。
環境のせいにするのではなくて、何よりまずは自分が変わらないといけないんだなと思いました。
留学したいという人に相談されたら、どうアドバイスしますか?
「留学することが目的じゃなくて、何をするために留学をするのかが見えていないと、きっと何にも得られず帰ってきちゃうよ」と伝えるようにしています。
日本にはいつ戻られたのですか?
高3の夏休み明けに戻ってきました。
そのときはみんな受験勉強の真っ最中でしたね。
私は進路を考える余裕さえなくて、推薦入試で大阪の外国語大学に進学しました。
夢を見つけた18歳、自分を追った20代
入学後はどのような生活をされましたか?
大学に入って、ひとり暮らしを初めて、ようやく自分の心と向き合って将来のことをゆっくり考えられるようになりました。
「そういえば私は絵を描きたかったなあ」とか「ものづくりをしたかったなあ」と思い出しました。
ただ「絵で食べていけるかな?」という想いもあって。
絵と同様に建築にも興味があったので「建築家を目指そう」と、大学卒業後に建築を学ぶ専門学校に入って2年間勉強しました。
ご卒業後は、どのような道のりで就職をしましたか?
皆と同じように就職活動をして、メーカーのデザイン部に入社しました。
でも入社すると入社前に言われていた条件とあまりにも違い、人事の方と喧嘩をして一週間でやめちゃいました(笑)。
その後、商社の設計部に転職をして、モニュメントや公園の設計をするようになりました。
そのうちカタログのデザインなど平面の仕事が多くなり、グラフィックデザインの世界が面白く感じるようになりました。
この頃も仕事をしながら、絵を描いては発表をしていました。
会社でのお仕事とご自身の作品制作を両立していたのですね!
その会社では2年ぐらい働きました。
その後はフリーでグラフィックデザインの仕事をするようになりました。
フリーになったのは24歳の頃、この頃から自分の作品制作に充てられる時間を増やせました。
作品を発表しようと思ったきっかけはありましたか?
そうですね、初めて個展をしたのは留学している時です。
美術教育が盛んな学校だったので、帰国するときに校内のギャラリーで1年間描き溜めた絵を発表する機会をいただきました。
そこでは「言葉以外のもので伝えられる喜び」みたいなものを肌で感じたんですよね。
帰国してからも、両親の経営するギャラリーで何度か個展を開きました。
就職して設計の仕事をしながらも、心の中では絵を描いてゆくことが常に自分の中心になっていて、いつしかそれが仕事になっていました。
25歳、東京へ。人との出会い、そして自己表現の日々
上京する際はどのようなお気持ちでしたか?
大阪を出ようと決めたときは、何処に暮らそうか迷いました。
香港もいいなあと思ったり、もう一度アメリカで暮らしてみようかと思ったり。
でも一度は日本の首都にも暮らしてみたいと思って、東京に暮らすことにしました。
東京では、編集プロダクションでデザインの仕事をしながら、比較的時間に余裕があったので、創作に打ち込みました。
作品制作にあてた時間はどのように使っていましたか?
その頃は怖いものなしだったから、ずっと気になっていた画廊に「作品を見てください」と勢いで連絡を取って持ち込んだりもしました。
ご自身の作品を見てもらうことは好きでしたか?
「自分の作品を見てもらうのが好き」っていう感覚はなかったのですが、とにかく見てもらわないことには始まらないという気持ちの塊でした。
その頃は自己表現のことばかり考えていて、絵を描くことの先に「自分は何をしたいのか」っていうことはほとんど考えられていなかったように感じています。
思うがままに、絵を描いていました。
実際に持ち込んでみていかがでしたか?
酷い言われようでしたね(笑)
一番惹かれていた画廊に一番初めに作品を持ち込んで、オーナーさんから酷い駄目出しをくらって、それでもその言葉の裏にはどこか優しさが滲んでいて…
結局そちらの画廊は、東京で初めて絵を扱って頂けることになりました。
その時のオーナーさんの言葉で「君の作品は根無し草だね。でも、それは君そのものだ、稚拙なようでそれは魅力だ」と言われ、それまで言われた酷いことが自分の中では全て帳消しになって、この言葉だけが心に残ったんです(笑)
若い頃って根拠のない自信みたいなものがあるじゃないですか。
当時はそれだけで生きていたんですよね。
“雇われる仕事”から“見つけ出す仕事”へ
行動を起こそうと思ったときに、何かビビッと来るものはありますか?
ありますね。
例えば絵本の話だと、「これは本となるべきものだ」と思うと出版されることが当然となって、出版されない方がおかしいと思い込むようなところはありますね。
何か正しいと思うと実現するまで続ける、こういうところは幼い頃から変わりませんね。
ご両親からの影響もあるのでしょうか?
家族の影響は大きいと思います。
例えば、絵を生業としていけるという感覚はなかったけれど、父親が自営業だったりギャラリーを経営したりしていたので自分で仕事をつくったり、自分のルールは自分で作るという感覚が自然に育ちました。
もし会社に就職して、1週間で「辞める」となったら、普通親は反対するじゃないですか。
でも「奈奈がそう思うなら」という感じで、止められたことはありませんでした。
気付いたときにはすでに、“何かを作る”という仕事の形がご自身の中にあったのですね。
ありましたね。
父親の背中を見てきたから自然にこうなったのかもしれないし、色んな種類の大人に囲まれて生きてきたからですかね。
奈奈さんにとっての“仕事の面白さ”とはなんですか?
会社の中で働いたときは全体を見通すことが難しかったんですね。
例えば、設計の仕事をしていたときは設計のパートだけを受け持つので、その仕事が「どのように入ってきて、どこで建築されるのか」っていう認識があまりないまま納品をしていました。
今こうしてフリーでやっていると、仕事の全体を見通せるんです。
仕事の依頼も、会社に来るのではなくて、私個人に直接依頼がくる。
そう考えるとそれだけでモチベーションが違うし、最終的にその仕事がどんな風になるのか、最後まで見届けられることが面白いですね。
作品作りで大事にしていることは何ですか?
自分の作品を作るときと誰かに頼まれて作品を作るときでは、大事にしていることが違います。
自分の作品として制作するときは、本当に自分が納得した形になるまで描くということを大事にしています。
頼まれて作るときは、関わってくださる方々とゴール地点がちゃんと共有できているか、それに対して自分が応えられているかが大事だと思っています。
奈奈さんにとって、お仕事とはどんな存在ですか?
「自分と社会をつないでくれるもの」のような存在ですね。
仕事は怖くて面白いものです。
描く絵に馳せる、「動物」と「女性」の存在
子どものころから絵本が好きだったのですか?
絵本というより、小説や詩集のほうが好きでしたね。
日常を淡々と描写したものや、動物小説、ノンフィクションが好きでした。
幼いころに、本を読んでそれに自分で絵を描くといったこともしていましたか?
あまりそういうことはしてきませんでしたね…。
最近はそういう仕事が多く、絵を描く機会を頂いてから、初めて手に取る文学作品もあります。
本を読む時間は自分にとって大切な時間で、本を読みながら作品のインスピレーションを得ることも多いです。
奈奈さんのプロフィールに「動物や女性への思い入れ」いう言葉が書かれていますが、それはどのようなものですか?
動物には、「かわいい」という感情もある一方で、それ以上に尊敬とか畏怖の念を持っています。
人も本来は動物ですが、元からあるルールに制限されて、本質的な何かを見失いながら生きていいるように感じることがあります。
動物は本能に従って生きていて、生まれた意味を問うこともなく、ただ自分がすべきことを知っている感じがするんです。
人も悩みながらも、そういう本質的な何かを追求してゆく人に憧れます。
「女性」についてはいかがですか?
例えば人って、一枚の絵を見るときに、水平線とか地平線とか基準になるものを見つけるんですよね。
地平線より上は空だとか、ある視点を定めてその世界観を感じる…。
私にとって「女性」というものはそういう基準のようなものだと思います。
そのように思い始めたきっかけはありましたか?
たぶん、自分が女性だから…だと思います。
女性に対しても魅力を感じるし、男性だけでなく、人によっては女性でも好きになれるわけで。
ただ、どんなときも私は「女の立場」で、その相手や世界を見ているんだなって思うんです。
“絵本は欠けたプロダクト”代表2作品への思い
絵本に対する思いはありますか?
『さいごのぞう』は、特定非営利活動法人トラ・ゾウ保護基金からの相談がきっかけで生まれた絵本なので、その方々の活動がもっと広がって、密猟されるゾウがいなくなればいいという願いがありますね。
『ウラオモテヤマネコ』のほうは、自分が今まで持ってきた世界の在り方を言葉と絵にしたので、「作品」という感覚が大きいです。
絵本を選んだ理由はありますか?
『さいごのぞう』は、トラ・ゾウ保護基金から「私たちの活動をより多くの人々に伝える方法はありませんか?」と相談された際、私から絵本にすることをご提案しました。
絵本なら子供から大人まで皆で読めるし、ただ声高に「活動を応援してください」というだけでは伝えられない想いを届けられると思ったんです。
『さいごのぞう』は、世界で最後の一頭になったゾウの最後の一日を想像してもらうところから始まるんですね。
読み終わって「こんな世界になりたくないな」と「感じて」もらう必要があると思ったので、絵本というツールを選びました。
2つの作品は奈奈さんにとってどのような存在ですか?
「すごく気になる存在」ですね(笑)
絵本っていうのは、“欠けたプロダクト”だと思っていて。例えば、今座っている椅子も“欠けたプロダクト”で、人が座ることによってはじめてプロダクトとしての意味ができます。
絵本も出版しただけじゃ何の意味ももたなくて、誰かが読んで思いを抱いてくれて、何かしら意識の変化や行動に繋がって、そこで初めて絵本というプロダクトが完成するのだと思っています。
今からこの2つの作品が、どのように歩いていってくれるか、ずっと気になっています。
「作家」としての今、そしてこれから
現在のお仕事の形を教えてください。
絵本を出したのは2年前からで、普段の仕事は絵を描くことがメインです。
雑誌や書籍の挿画を書いたり、作品を制作して百貨店やギャラリーで展示をして頂いています。
少し前まではデザインの仕事が多かったのですが、今はほとんどしていないですね。
絵本を作るときも、装丁家の方に入っていただきますし、雑誌の挿画を描く時もデザイナーさんは別にいて、絵を渡すところまでが自分の仕事です。
様々なジャンルの「絵」に関わっていらっしゃる中で、ご自身の肩書にこだわりはありますか?
取材を受けるときは「作家」として書いてもらうことにしています。
アーティストや画家としてご紹介を受けることも多いのですが、自分の中ではなんだかしっくりこなくて…。
作家という呼び方だったら、文章を書く人も、絵を描く人も、写真家の方も入るし、広い意味で「なにか作ることをしている人」と捉えて頂けるかなと思ってそう伝えています。
これからの目標はありますか?
今は本づくりが、一番楽しいと感じています。
私自身も小さいころから本を読んで世界を広げてきたり救われてきたところがあるので、自分が作り出す本も、時代を超えて誰かが手にとってくれたときにその人の気持ちにそっと寄り添える作品を作れたらいいなと思っています。
同じ職業を目指す人へメッセージをお願いします!
私の周りにも絵本を出したい方が沢山いて相談を受けることがあるんですね。
でも何年持ち込みを続けても実現しない人も多くて。
なんで実現しないのかなと考えると、やはり自己表現だけをテーマにした絵本というのは難しいのかなって感じています。
絵本を作るなら、絵本を作って「手にとってもらう人達に何を与えるのか」、「なんでその絵本がなくてはならないのか」ということを考えて作ると、一緒に仕事したいと思ってくれる出版社がきっとあるんじゃないかなと思います。
ハナジョブ読者の学生へメッセージをお願いします!
大学を卒業したら「就職」、適齢期が来たら「結婚」みたいに考え、それを踏み外すのが怖いと感じる人が多いと思います。
そうじゃなくて、勉強したいって思ったときが勉強するときだし、結婚したいって思ったときが結婚するときだから、大学を卒業したからといって就職をしなくてもいいと思います。
踏み外すことを恐れることはないし、「踏み外す」って言葉自体がおかしいことだと思うから、そのときやりたいこと、見たいことを大事にしてほしいなって思います。
取材を終えて
念願の絵本作家さんからお話を伺え、大変光栄でした。そのお話しの中で、「自分に素直になること」の大切さをたくさん教わりました。
「楽しいと思うことを楽しむこと」、「やりたいと思ったことをやってみること」、それらはとても簡単に見えて、とても勇気のいることだと思っています。
しかし、今回のお話をきっかけに、背中を押していただき少しずつ手を伸ばす準備ができました。
お話しいただきありがとうございました。奈奈さんのさらなるご活躍を心より願っております!