40年以上も現役で編集者を続けている、松井晴子さん。若いころから日本を代表する建築家と交流があり、建築家からの信頼も厚い。ベテランではあるけれども気さくで、とにかく仕事を楽しんでいるというのが印象的だ。いかにして編集の仕事に就いたのか、仕事を続ける原動力は何か、子育てとの両立はいかにして克服したのか・・・、働く女性の大先輩に、いざインタビュー!(2008年8月時点の情報です)
コンプレックスから導きだした、編集の仕事
現在の仕事に就いた経緯を教えていただけますか?
高校を卒業して入ったのが、桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科(当時)、といって、バウハウスの系譜を真っ当に受け継いできているような学校だったんです。服飾以外のデザインはなんでも・・・彫刻、写真、デッサン、色彩構成理論・・・すべてやらされるんですね。桑沢は3年間あるんですが、最初180人いたのが、2年で60人落とされて120人になり、3年目の研究科には60人しか残れないんですね(当時)。私は2年から住宅インテリアのコースに入るんだけど、1週間のうち3日は徹夜しないと課題が追い付かない。なんとかついていって3年間残りました。
研究科まで残った同級生は12人。私を除いて全員、デザイン事務所か建築設計事務所に就職したんです。みんな、デザインすることを職業に選んでいるんですよ。ところが、私は3年の終わり頃になって、自分にはデザインが向いてないと思って、すごく悩んだんです。というのはね、コンプレックスがあったんですよ。どんな課題でも人よりうまくいかない。一体全体、なんで私はこんな学校に入っちゃったんだろうって。
それで、原点に戻ってみると、子供のころから住宅が好きだったんですよね。誰かの家に行ってはその家の図面を描いてみたり、奈良京都に行けば建築を見て歩いたり。それに加えて、本も読むことが好き。それなら、出版社で建築関係の本を編集するのが向いてるんじゃないかなあと思ったんです。
必死になって学んだ、専門誌時代
なるほど、それで編集の仕事を選んだんですね。仕事はどのようにして見つけたんですか?
学生時代に婦人画報社(現・アシェット婦人画報社)の「モダンリビング」という雑誌で、住宅の図面を描くアルバイトをしていたんです。それで、編集部の人に編集の仕事がしたいという話をしたら、うちの編集部に来ない?って言ってくれたんですね。じゃあ、まあちょっと半年くらい行ってみるかなと思って、「モダンリビング」の編集部に入れてもらったんです。そこで宮脇檀さん(日本を代表する建築家)に出会ったりするんだけど、その当時は生意気でね、仕事に物足りなさを感じて、もっと勉強したいなって思い始めたんですよ。
そんなとき、建築専門誌の編集部に入ってみたら?って言ってくれた人がいてね。貧乏な出版社だったんだけど、ものすごく忙しくて、1か月のうち1週間は徹夜してましたね。家に帰らず。金魚のフンみたいに先輩の編集者にくっついて建築家に会ったり、こんな本読みなさいって言われたら、はいって言って一生懸命読んでね、翻訳本をやりなさいって言われたら英語もやったりしてね。そういうことを教えてくれた編集者が、実は私の夫になる人なんです(編集者・評論家の植田実氏)。
子育てを通して、自分のやりたいことが見えてきた
1968年に結婚することになったんですが、ちょうど夫が「都市住宅」という新しい雑誌の編集長として呼ばれたんですよ。私もそれを機に出版社を辞めて、フリーの立場で創刊から夫の仕事を手伝いました。その後、人からの紹介で、建築ジャーナリズムを中心にした編集事務所に就職したんです。そこに2年ほどいて建築年鑑や単行本の編集をしていたんだけど、経営が厳しくなって、だめになっちゃって。
期せずしてちょうど妊娠がわかったんです。それで、子供が生まれたころから、フリーで本をまとめる仕事を始めました。そんなにハードなこともできないですからね。
子供が生まれて、どんな変化がありましたか?
子供を保育園に預けると地域のお母さんとの繋がりが出てくるんですよ。それまでは、デザインとか建築の抽象的な話をしたり、前衛的なところに引っ張られていて、地に足がついてないわけ。それでも超一流の人たちと付き合うわけですから、思いっきり背伸びしていたんですよ。でも、子供を産んでどんどんどんどん足が下に沈んでくるんです。目線がだんだん低くなっていくわけ。そうすると、ああ、こういう議論ってリアリティないんだ、お母さんたちに建築論うんぬんて言ったって意味がないんだ。そういうことを自分で感じちゃうわけですね。
そうですね、わかります。
それで、もうちょっと自分の目線に合っていること、つまり、衣食住で言ったら私は住に興味があるわけだから、住がらみで編集の仕事をしていくのが自然かなって。子供を育てるって具体的だから、生活と仕事は切り離せないんですよ。だから専門家向けの仕事をするよりは、一般の人向けに建築の面白さとか、暮らしと住宅がどう関わっているのかとか、住宅から連なる「街と建物」がどう関連を持つのかとか、つまり、建築を一般の人に近づける、橋渡しの仕事が自分には向いてると思ったんです。
「身につけた学問を必ず社会に生かしなさい」
専業主婦が多い時代ですよね? 女性が働くことに対してどう考えていましたか?
進学率の高い高校だったから、同級生のほとんどが4年制の大学に進学していて、キャリアとしての職業を持った人が半分くらいはいました。男女共学で、高校時代から男女対等な感じでやってきたから、職業を持つというのは、みんな普通に考えてましたね。で、私が進んだ学校、桑沢っていうのは一種の職業学校ですからね、出るとやっぱり仕事に就くっていうのが当たり前だったから。研究科まで残った12人のうち、女性が5人男性が7人だったかな。
じゃあ、常に男女が対等という環境にいたわけですね。
そうそう、だからよく聞かれるんだけどね、女性蔑視とか、「女だから」って言われたことないんですよ。鈍感だから感じてないだけかもしれないけど(笑)、不思議なことに男女差別を受けたという記憶がないんですよね。女だからうんぬんって言われたことないんです。比較的女性が多い分野でもありましたから。今でも、関わっている編集者は女性が多いですよね。そういう分野だったから、あまり感じなかったと思うんですよね。
男の人に負けないようにがんばろうって思っていたわけでもなく?
全然、全然!それこそ、子供産んだとたんに地べたに足がついちゃったわけだから、自分のペースで自分の感覚を信じようかなって。背伸びしたくないと。生活感のないこと、頭でっかちのことばっかり言っている建築界に距離を感じちゃったわけだから。抽象的なものを議論していくっていうのに向いてなかったんだと思うんですよね。実感的なことしか喋れなかったと思うのね。建築家の書く文章ってすごく難しいのよ(笑)。
専門家はいいんだろうけど、一般の人は困りますよね。特に家建てるとなると女性が中心になることが多いでしょう?
いや、いまは半々ですよ。男の人が中心になってつくる家っていうのも増えてきてる。建築家を決めるのも旦那っていうね。だいぶそれは変わってきてる。昔と比べると。だからなんていうか、男女の役割って変わってきてますね。家のことをやる男性も増えてきて、特殊じゃなくなってきてるんですよ。
いろんな生き方があるって知らない学生さんも多いんですよね。どうしても母親の生き方がモデルになってしまうから。母親が専業主婦だと、将来は自分も専業主婦、というような。
そういうことでいうとね、うちは父が科学者だったんですよ。それで戦後、自分で研究所を設立するんだけど、事業家じゃないもんだから失敗してすごい借金を背負っちゃうわけですよ。それで家族五人がどん底につきおとされるんです。さらに父が結核を病んじゃったんですよ。しかも、祖母まで母にくっついて離れない。だから家族6人の生活が母の肩にのしかかってきたわけ。家族6人住み込みで、母が懸命に働いて。でもね、貧しいけれども、「勉強にはお金は出します。がんばって大学までは行きなさい。大学でたら学んだことを社会で生かしなさい。自立しなさい」って母は言うんですよ。
つまり母は、自分は大学まで行ってないから仕事を選べなかった。もし、大学まで行ってたら、もっと別の仕事があった。これからの女性はとにかく学問をちゃんと身につけ、身につけた学問を必ず社会に生かしなさい、というのが、母の教えだったんですよ。そう考えると、貧しさが働き続けることの原動力になっていたかもしれない。
親の背中を見て育つっていう点では、私は両親に感謝してますよね。両親がそういう生き方だったから、子供には教育を受けさせて、経済力も含めて自立できるようにしておいた方がいいと。夫が働けなくなったら、妻がバトンタッチして働きなさいってことね(笑)。そういう親を見てたから、それが普通だと思ってたから。大きいですよね、親の影響って。
もう一つ言われたのが、結婚しなさい、子供産みなさいって。そこまでは守りますってことで、三姉妹、そこまでは守ったんですよ(笑)。一応、言われたから仕方ないねって。ごく当り前にしなくちゃいけないことだと思ってたから、気負いもなく。
育児をしながら、仲間の編集者3人と「有限会社無限」を設立。3~4年は創設メンバーの男性2人と同じペースでやっていたが、当時、お子さんは小学生。シッターさんに来てもらっていたものの、毎日終電というわけにもいかない。そこで、ペースを落としながら、仕事を続けることに。その後、インテリア雑誌の編集長の仕事を引き受けたが、会社の事情に振り回され、殆どタクシーで帰る毎日。娘は高校生になっていたものの、さすがによくないと思い、1年で断念。
その後、「有限会社無限」を抜けて、「有限会社松井編集室」を設立した。人を雇う以上、給料はちゃんとしようと、スタッフの年収もある程度の水準を維持。しかも、「仕事だけが人生じゃない。われわれの場合、見ることも仕事のうち」と、年に1回は海外旅行に行かせていたという。しかし、バブル崩壊後は、その水準を維持するのが厳しくなってしまった。そのため、スタッフに独立してもらい、一人で会社を続けた。そして、2007年に個人に戻り、現在はフリーランスで編集の仕事を続けている。
改めて自分のテーマが見えてきた
現在はどんなお仕事をされているんですか?
例えば、40年来親しく付き合っている女性建築家(象設計集団・富田玲子さん)がいるんですけど、彼女の考えに共感するものがずっとあって、いつか彼女の話を本にできないかと思ってたのね。それで、2年近く毎月1回、2~3時間、テーマを決めて話を聞いて、まとめていった。その後、ある人の紹介でみすず書房に持って行ったら、本にするってOKが出たんですよ。
つまり、私の仕事っていうのは、題材を見つけて、企画を立てて、聞き書きして自分で文章作って、それをどこかの出版社に売り込むというところまでやるんですよ。それで本にしていくという。人に書いてもらうこともむろんあります。編集といってもフリーの場合は、そこまでやらないと成果物まで上がってこないんですね。
何かやりたいことがあったら、出版社で仕事を重ねていった方がいいと思う。私の場合、自分の実現したいことを回り道しながらやってるところもあるんですよ。だから、フリーの編集者はおススメではないんです(笑)、私の中では。やりたいことをやるのに、社員編集者の何倍ものエネルギーがいるんですよ。
最初から好きなこと(建築と本)を仕事にできたというのは、うらやましいですね。
要は消去法だったんですよ、ほかに能力がなかったからで。結局、本が好き、建築が好きって言うと、もうこれしか選べることがなかったのね。ところが今、ちょっと変わってきたんですよ。ある雑誌から、「20年30年経った、建築家の設計した家がどう住み継がれているか」ということをテーマにやってみませんかと声かけていただいて、これぞ私のテーマって思ったの。
結局、私がこの道をずーっとやってきて、欠かさず関心を持っていたのが住宅なんですよね。これは嬉しいと思って。それこそ、若い頃出会った建築家に「昔の松井でございますが、あのときのあの住宅は今どうなっていますでしょうか?」って話ができるわけじゃない(笑)?
そうですね、長く続けている松井さんだからこそできることですよね。
その企画では、2年間で24人の建築家に会って24件の住宅を取材しました。雑誌に連載したあと、本にまとめて出版したんですね。「建築家が建てた幸福な家」というタイトルで。売れるはずないと思っていたのに、3か月で初版が売り切れて、瞬く間に3刷りまで行ったんですよ。でね、世の中の人がこんなことにこんなに関心があったのかと、実は私もびっくりしたんです。
その後、「建築知識」という月刊誌で続編の連載を開始した。専門家向けの雑誌ということもあり、その当時の実験住宅的なもので、今でも活躍している建築家24名を人選。2007年に単行本として出版された。
同時に「心地よく、これから何年も住める住宅」をテーマに「住宅の手触り」という企画を立て、「新しい住まいの設計」で連載。「手触りのいい家だから、永く住み続けられる」という論理に繋がっている。中村好文さん、永田昌民さんなどを含めて12人を取りあげ、それぞれ2件ずつを取材。2007年に「住宅の手触り-12人の建築家による、24軒の手触りのいい家」というタイトルで出版された。
時代に求められているものだったんですね。とても興味深いです。
現在は、戦前から残っている建物の保存にかかわる人々をテーマに連載をやっています。東京って、ものすごい勢いで建て替わって行くんですよね。全部が全部新しくなるっていうのは異常なことでね。やっぱりいいものは残していきたいなっていう。年々そういう想いが強くなってきているんです。
自分が今までやってきたことや関わってきた人たちを記録にとどめておく、そういう時期に来てるんだと思います。
積み重なって、積み重なって今があるという感じですね。
いや、こうやって話すとそうなんだけど、フリーランスって大変なんですよ。仕事がない時もあるんです。もうね、本当に辞めようかなと思ったこともあります。でも、主婦というのが全然ピンとこなかったの。家のことだけするっていうのが自分の中でイメージがわかなかったんですね。子供は保育園に行ってたし、学校に行けば学校の生活があるし、中学に行けば親より友達だし、うちの旦那ってのは手がかからなくて自分で完璧に何でもできる人だから。そうなると、私は一体じゃあなにすればいいの?って感じで。で、遊びまくるかっていうと、遊びまくるほど遊び人じゃないんですよね、これが(笑)変に真面目なところがあったりして。
ははは!
そうするとやっぱり仕事がない時でも、しょうがないか本でも読むかって、本読んでたりしてね。ずるずるやってきたとう感じで、決していつもいい状態を保っていたわけじゃないんですよ。ホントに、ちょっと繋がってるものを捨てなかったっていうだけですよね。
人との出会いが自分を育てる
どう自分の可能性を広げていけばいいのか、悩んでいる学生さんも多いと思うのですが。
うんうん、そうね。自分の若い頃を考えても、本当にわからなかったもの。学校出たての頃って、世の中どういう仕組みになっているのかとか、本当に何も分からないんですよね。何をやったらいいのかわからない、という感じですもんね。
でもね、結局はね、どういう人に出会うかっていうのかが大きくて・・・恥ずかしいんだけど、ここまでやって来られたっていうのは、先輩に、今の亭主がいたからなんですよ。いろんな世界を開いてくれたんですよ。こういう本を読んだ方がいいんだよとか、こういうふうにものを見た方がいいんだよとか、命令口調で言う人ではないんですよ。どこかに連れて行って、ここいいよね?とか言ってくれるんで、そっかそっかみたいな感じで。
人との出会いが大きかったと思いますね。亭主だけじゃなくて、ほかにもいろんな人に会っていくわけじゃない?さっき言った建築家の人とか、彼女の作ったものを見たりしてだんだんわかってきたりね。いい人に出会うことで、自分の世界が徐々に構築されていく。人からの刺激って、私は本当に大きかった。
自分なんてほんとちっぽけなものでね。誰かが自分の中の「かけら」みたいなものを引き出してくれると、自分で努力して大きくしていくことができる。だから、スキルも大事かもしれないけど、むしろ、いい人に出会える場を自分で切り開いていく力の方が大事だと思いますよね。
好きなことを仕事にする
今は高学歴になっているから、皆さん知識もあるし、スキルもあるし、語学もできるけど、「やりたいことは何か」を掴むことが一番大事ですよね。私はそこに尽きるような気がする。自分でやりたいと思っていることなら、大変なときでも、好きなんだからもうちょっと我慢しようかなって、我慢が出来るんですよ。
好きなことを見つけるのに苦労してる学生さんも多いと思うのですが。
身近に何かあると思うんだけどね。ちょっと考えてみると。私は本当に子供時代から住宅が好きだったんですよね。それで飽きずに、好きをそのまま仕事にしちゃったんですけどね。
建築以外にもね、旅が好きだったのね。それで、松井編集室で一人になったときに、企画を出して通ったのが、「世界の建築と街並み」という本なの。ヨーロッパとアメリカ編で6巻。元々、世界の街並みや建築を見るのが好きで、年に2回くらいは海外に行ってたんですよね。写真も好きで撮りためてて。これを活用できないかなって企画を作ったんですよ。大変だったけど、好きなことが仕事に繋がって、今まで投資した分も少しは回収できたかなっていう(笑)
お仕事、ほんとに楽しそうですよね(笑)
人生楽しくなきゃ、何の意味があるのよってことでしょ?(笑)もちろん、楽しくないことはありますよ。「いいですね、楽しそうですね、いいことばっかりやって」なんて言われるけど、仕事はものすごく大変ですよ。苦労はたくさんあります。人には言えないこともね。だけどね、いやな分野でいやいや本を作ってるわけじゃなくて、好きな分野で、自分が心躍るから、こういう本にしたいって思ってやっているわけだから。
好きなことなら、ちょっとくらいの苦労は苦労だって思わないですよね?
そうそう、思わない、思わない!仕事というのは、いい会社に入ることでもないし・・・よくいるじゃない?「どこどこ会社入ったんですよ、うちの娘は」って。「あら、よかったですね」なんて言うけど、半分は「どこの会社に入るより何をするかなんだけどな」って思うんですよ。自分なりに、どんなことをそこで生かせるかっていうね。
だからブランドで仕事を決めるんじゃなくて、どんな小さくて名の知れない会社でも、自分が好きなことで、将来ずっと続けられるってことを見つけられるんだったら、それをやるのが一番幸せだと思うんですよ。何やっても、どんな職業選んでもそうだと思うんですよね。それと、仕事が面白いって思えるなら、子育てで大変な時期があっても、なんとか持続して先に繋げていくことが大事だと思います。
本当ですね。継続は力なりです。私も日々実感しています。今日はお忙しい中、たくさんのお話を聞かせていただいてありがとうございました!学生さんにも、仕事って楽しいんだ、続けることでこんなに世界が広がるんだってことをわかってもらえたのではないかと思います。
インタビューを終えて( ハナジョブスタッフ)
娘さんは子育てをしながら広告代理店で働いているそうです。「自分のやりたいことを仕事にし、楽しみながら持続していく」という松井さんの生き方は、間違いなく娘さんに伝わっているのでしょう。一つの仕事をやり続けること、人を雇って会社を経営して行くこと、そして家庭生活を送って行くこと。その渦中にいるときは、本当に苦労があったと思います。でも、やり続けることで、仕事は広がり深くなり、そしてさらに面白くなる。そんなことを、松井さんから教わりました。
学生の皆さんが、すぐにやりたいことを見つけるのは難しいかもしれません。アンテナを広げて、いろいろな人の話を聞いてみましょう。面白そうだな、やってみたいな!という仕事が必ずあるはずです。それをきっかけに、自分の可能性を広げて行ってください。