私たちはどんな先人たちの肩の上に乗っているのでしょうか。この企画では、毎回一つの視点から今は亡き先人たち三人をピックアップして紹介します。
一から読むもよし、気になる人だけ覗くもよし、飽き性なあなたもつまみ食い!
初回の今回は看護師にフォーカス。すると、三人の生き様を超えて、看護という職が「ただの雑用」から「高度な専門職」として世の中に広まるまでの軌跡が見えてきました。
『覚え書き』と最新技術のコンビネーション ~ナイチンゲール~
世界が認める英雄、ナース
看護師が医療関係者であることを疑う人は現在おりますまい。昨今のパンデミックでの活躍も記憶に新しく、もう足を向けて寝られません。バンクシーはスパイダーマンのおもちゃを捨てて看護師の人形で遊ぶ子どもの絵を描いたほど。あれ、印象的ですよね。
しかし、そんなふうに考えられるようになったのは紀元前からの医療の歴史上、かなり最近のこと。もちろん、現在の看護師にあたる様々なケアや処置を行う人は昔からいたのですが、それは傷病者の雑用係や医者の助手と捉えられていました。そんな中、看護を専門的かつ適切な知識をもとに傷病者の不自由や苦しみを軽減させ、健康的な生活を創り上げるプロフェッショナルとして世に知らしめたのが、かの有名なフローレンス=ナイチンゲールです。
ナイチンゲールの凄さとは
フローレンス=ナイチンゲールはどんな小さな図書館にも伝記漫画があるくらいの有名人。表紙には大抵、袖なしエプロンにロングドレス姿ですっと立つ姿が描いてあります。しかし、ナイチンゲールがそんなふうに臨床に立つことができたのは90年の人生の中でたったの3年ほど。クリミア戦争後は感染症による体力低下であまり動くことができなくなっていたのです。
そう、評価されている点は臨床での働き以上に、その後の著作や教育などの活動にあります。中でも大きな影響を与えたのが、看護を定義し、その在り方を提言した「看護覚え書き」(1859年初版)。自然治癒力などの科学的な知見、看護をするものの心得など臨床の場ならではの考えや経験など、現代で「当たり前」とされる事柄がまとめられています。
影響は革命級
さて、実体験として何かしらの必要性を感じることができたとしても、それを他者に訴え、社会で徹底するのはなかなかに難しい・・・。ナイチンゲールの凄さはそれをやってのけたことにあります。「当たり前」を築くことは言い換えれば革命!
ナイチンゲールの影響力は文字通り革命級で、現在では医療衛生改革と呼ばれています。もちろんさっきの本一冊で成し遂げたわけではなく、統計学という相棒とともに一生をかけて、多角的に展開されました。
ナイチンゲールが看護を雑用ではなく「患者の健康的な生活を創り上げること」と定義し、その専門性を広く認知させたことによって、それに従事する看護師たちも雑用係ではなく訓練されたプロとして見られる流れが生まれます。その大きな流れは遠く離れた、明治維新に沸く日本にも!
落ち延びと勲章の看護師 ~新島八重~
お江戸の医療事情
江戸時代、庶民の間では薬や鍼灸が身近な健康医療法として浸透していましたが、それに加えて町医者に診てもらおうというときには、落語でよくあるように、医者を呼ぶ往診が基本で病院というものは存在しませんでした。
本格的に西洋的な看護の体勢が整えられ始めたのは明治中期。庶民から上層部まで大混乱だったあの時代、新しい職である看護師として働いた人にはどんな人がいたのでしょうか?
会津戦争を生き抜いた新島八重
新島八重は夫が亡くなったことをきっかけに当時、災害と戦時救護を目的としていた日本赤十字社の正社員になりました。その後、日清戦争での活動を讃えられ勲章を受賞します。悲しいことに日清戦争は結果的に看護師という職が知られる契機となったのです。しかもこれは一般人の勲章第一号の一人という名誉!
新島自身もこれを機に出世しますが、新島は会津藩出身で、23歳のときに会津戦争を経験しています。その際は砲弾の飛ぶ中、西洋式鉄砲の心得を生かして藩主へ砲弾の解説をするとともに救護もしたとか。会津戦争では落ち延び、日清戦争では勲章、複雑な気持ちだったのではないでしょうか…。何にしても、会津戦争での救護活動は経験であって、理論体系、ましては職業と結びついたものではありませんでした。新島が「看護」というものを知るのはもうちょっと先のこと。
看護との出会い
鉄砲のエキスパートであった新島八重が西洋的看護を知ることになったきっかけは夫の新島襄にあります。同志社大学の創設者である襄は医学教育への関心も高くナイチンゲール縁の聖トマス病院を早い段階で目にしていました。二人が結婚した頃には、同志社病院と京都看護婦学校が発足し、ナイチンゲールに師事した米国人看護師が着任します。
ちなみに襄は八重の「ハンサムな生き様」に惚れ込んだんだとか!八重も襄を慕い、二人は仲がたいへんよかったそうです。八重がとった看護師という選択は、襄から得た知見の一つを亡くなった後の生活の軸にするということ。亡くなった後も共に生きていくということ。もしそんな風に捉えたなら、「過去の経験を活かす」という言葉だけでは伝わらない粋な心を感じます。これはちょっとロマンチストが過ぎるでしょうか?
ハードモードなアメリカンドリーム ~ヒルデガードペプロウ~
「覚え書き」のその先へ
さて、ここまで看護が職業的訓練の必要な専門的な行為として世界で認識され、それを学ぶ環境が整えられたと繰り返し伝えてきました。ただし、ナイチンゲールの著作が「覚え書き」であることからも分かるとおり、二人の時代の看護には高度な学問的体系はまだありません。それゆえに看護師の地位は医者と比べると大幅に低く、その状況は長く続くこととなります。
そんな中いち早く、看護の大学院教育の必要性を訴えた一人であり、患者との対人関係に注目した理論を執筆した人物を最後に紹介しましょう。ヒルデガードペプロウです。この人の人生もアメリカンドリームなんて生ぬるい一言では終わりません。
自立できる唯一の職業としての看護師
第一次大戦後の1919年、ペプロウは労働階級の移民二世として米国に生まれます。ドイツ系であるため、家庭内は張り詰め気味でしたが、時は狂騒の20年。仕事や学校の傍ら友人たちとは明るく楽しく過ごしたそうな。そんなペプロウが看護師を目指した理由は、「知っている中で女性が自立して生活できる唯一の職業だった」から!
ナイチンゲールの創り上げた職としての看護師の立場は、数少ない女性の自立の道を提供することにもなっていたことがわかります。
未婚のシングルマザー、博士号をとる
第二次大戦が始まるとペプロウは英国で活動、そこでの経験と姉の精神疾患が精神に注目する契機となります。投薬と休息のほかに、患者との対話が精神疾患の改善に大きく貢献することに可能性を見ていたそうですが、驚きなのはそれが細かい体重管理によって妊娠を隠しながら働き続けた際に得たものであるということ。
英国から帰国後出産し、娘の父親と円満に別れ、兄弟などの協力を得つつ子育てをするのですが、さらにさらに持ち前の勤勉さと人の縁、提案力から大学院に進学するチャンスを獲得。勉学に励みながら著作も執筆。対人関係を重視した看護理論を示したペプロウの代表作であり、看護論の古典として現在も読まれている「人間関係の看護論」はそんな、人間ってこんなマルチに動ける生物なのか!と驚かされる状況下で執筆されたものなのです。
当時の手紙に溢れているのは娘への愛と、人間関係の苦労、単位取得の大変さ、一つ一つを見てみればとても素朴で共感さえ覚えます。その事実は励みになるような、ならないような・・・。
執筆後記
今回は看護を発見し、その発信に多角的に力を尽くしたフローレンスナイチンゲール。価値観との大変革の時代にあって、自分の居場所を見出し続け、その結果、看護師の知名度向上に貢献した新島八重。欲しいものを手に入れんとする勇気に溢れ、患者との関係に注目した看護理論によって看護学の高度な専門性を追求したヒルデガードペプロウ。この三人の人生を垣間見てきました。
新たなものを発信する者、それを受け入れる者、発展させる者、三者に共通するように感じるのは、「思いを自分の中に留めず社会とのつながりを忘れない姿勢」です。居心地が良かったり、逆に大変なことがあると自分の世界や馴染みのある場所にずっといたくなったりするものですが、自分とは違う世界への眼差しを忘れずにいる事が何かを成すには重要なのかもしれません。
参考文献
「新島八重 スペンサー銃からバイブルへ八十七年の軌跡」
著者:笹川壽夫 発行所:株式会社新潟日報事業社 発行年:平成24年7月15日
「ペプロウの生涯 ひとりの女性として,精神科ナースとして」
著者:バーバラj. キャラウェイ 発行所:株式会社 医学書院 発行年:2008年4月1日
人道研究ジャーナルvol.9 2020 特集3 ナイチンゲール生誕200年「ナイチンゲールが残した知られざる八つの業績」金井一薫
「特集 鼎談 同志社医学教育の歩み-同志社病院と京都看病婦学校-」2014年
https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-2165/61746/file/139_008.pdf
「江戸時代の医学」国立科学博物館
https://artsandculture.google.com/story/DQVBTRP0HptAJQ?hl=ja
※令和5年7月3日最終閲覧