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	<title>その他（業種） &#8211; わたしの未来のキャリアが見つかる｜ハナジョブ for Girls</title>
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	<title>その他（業種） &#8211; わたしの未来のキャリアが見つかる｜ハナジョブ for Girls</title>
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		<title>研究こそ私の趣味であり、生きがい。（准教授・研究者）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 22 Jun 2016 23:46:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
		<category><![CDATA[研究（職種）]]></category>
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					<description><![CDATA[東京薬科大学の准教授としてがん研究に夢中な伊東史子先生。大阪から世界へ飛び出したからこそ得られたもの。研究者として、母として、大切にしている考え方。柔らかい印象から垣間見える意志の強さ、自身の軸とともに、今をパワフルに生 [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="kakomi">
<p>東京薬科大学の准教授としてがん研究に夢中な伊東史子先生。大阪から世界へ飛び出したからこそ得られたもの。研究者として、母として、大切にしている考え方。柔らかい印象から垣間見える意志の強さ、自身の軸とともに、今をパワフルに生きる伊東先生をインタビューしました。（2016年6月時点の情報です）</p>
</div>
<h2>原点は薬を作りたいという幼心から</h2>
<h3>研究者としての今のお仕事を教えてください。</h3>
<p>東京薬科大学生命科学部の心血管医科学研究室で准教授をしています。主に研究と学生たちの講義を担当しています。</p>
<p>研究テーマは一言で説明すると「がん」です。がん細胞は体の中に毎日作られてしまうものですが、普通は免疫細胞によって排除されてしまう。でも、たまたま生き延びて遺伝子の変異が蓄積されてしまうと、悪いがん細胞になって増えてしまいます。がん細胞が増えるためには新しい血管を作って酸素と栄養を手に入れることが必要ですが、さらにがん細胞はこの血管を転移経路として利用します。</p>
<p>だから新しい血管を作らせないようにして、がんが増えるのも転移するのも防ぐ薬を作りたいと考えて研究をしています。そのほか、がん細胞自体の研究もしています。</p>
<h3>医学の研究をしているように思うのですが、医学部出身なのですか？</h3>
<p>もともとは薬学部出身です。大阪の薬科大学の薬学部に4年間通っていました。</p>
<p>薬学部に入ったのには、2つ理由があります。1つは背を伸ばす薬を作りたかったからです。私は身長が小さかったので、背を伸ばす薬を作りたかったんです。私を含めて家族みんな身長が低くて、小さい＝私の一族、という見方をされていてすごく嫌でした。病気でもないのに家族皆スモールサイズで。平均身長に憧れていましたし、普通に買える洋服や靴はいつもサイズが合わなかったり。</p>
<p>もう1つの理由は、中学生の時に自由研究のために、ある化学薬品を購入しようとしたのですが、危険物だから薬剤師免許や危険物取り扱いの免許を持っている人じゃないと購入できないと言われたからです。薬物を手に入れたかったので、薬剤師免許が欲しい、と思いましたね。</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-5921" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-2.jpg" alt="interview111-2" width="1280" height="800" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-2.jpg 1280w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-2-300x188.jpg 300w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-2-768x480.jpg 768w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-2-1024x640.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1280px) 100vw, 1280px" /></p>
<h2>疑問が自分の手で明らかになる瞬間との出会い</h2>
<h3>4年生で卒業研究をする中で研究の魅力に気づいたそうですね！</h3>
<p>学部生のときは授業を受けて実習をして試験して、バイトをするという日々を送っていました。なので、初めから「研究者になるぞ！」と思っていたわけではありません。4年生のときに卒業研究を通して、研究の魅力にとりつかれていきました。</p>
<p>なぜなんだろう、どうして？と考える過程が楽しくて、もっと研究したいと思うようになりました。実験して予測通りの結果が出たときは本当に嬉しくて、でも失敗すると悔しくて。</p>
<p>研究の奥深さに触れることで私の将来が開けていきました。大学院に進学し２年間どっぷり研究をして、その後スウェーデンに研究留学しました。</p>
<h3>なぜスウェーデンまで行こうと思ったのですか？</h3>
<p>スウェーデンの研究所に先輩がいて、今なら博士課程に入れるよ、という感じで誘っていただいて、「行きます！」と軽い気持ちで旅立ちました。</p>
<p>海外の大学院は大変かと思われますが、先輩もいましたし、研究所にも4人の日本人がいたので心強かったです。意外と海外在住の日本人研究者はいますが、確かに大学院生はいませんでした。</p>
<p>ヨーロッパ諸国は博士過程が一種の職業であり、お給料を頂くことができます。だから、結婚も出産も博士課程の学生でもできてしまうところが日本とは違うところですね。とても人生を設計しやすいと思います。</p>
<p>スウェーデンに来て2年弱過ぎたころ、研究室のボスが母国のオランダに帰るというので、私もついていき学生を継続しました！オランダでは3年過ごしました。スウェーデンもオランダも言葉が違うのですが、みんな英語ができるのでなんとか生活も研究も楽しむことができましたね。</p>
<p>でも、これから留学する人には英語圏を勧めたいです。だって食材に関するオランダ語やスウェーデン語も当時は覚えたけど、今は必要ないですから。</p>
<h3>食が合わなかったりしませんでしたか？</h3>
<p>私は特に問題はなかったです！どちらの国も主食はジャガイモやパンです。フライドポテト、マッシュポテト、茹でじゃが、どれも大歓迎でした。ジャガイモが大好きだったのと生活がとても楽しかったので、日本に帰るのが惜しかったです。</p>
<h3>日本とスウェーデン、オランダとの研究室の違いはありましたか？</h3>
<p>まず公用語が英語ということですね。様々な人種が集まっているので英語を使ってコミュニケーションを図っていました。</p>
<p>私が所属していた研究室にはフランス人、アイスランド人、オランダ人の方がいました。留学した当初、英語は全然できなかったのですが、アイスランド人の友達に助けてもらって、だんだん意思疎通ができるようになりました。彼女は今でも親友です。</p>
<p>スウェーデンやオランダでは、大学院講義は時期開講で、日本のように毎週授業はありません。日本の大学院生は授業だ試験だ、と大変ですよね。</p>
<p>また、スウェーデンの博士過程は在籍期間で卒業するものではなく、業績を出したらいつでも卒業できるんですよ。最短で2年半で卒業できる人もいるし、長ければ8年かかる人もいます。私は5年強かかりましたね。</p>
<p>私が所属していた研究所には最先端の共通機器が配置されていたので研究の面でも恵まれていました。機器には専門のオペレーターがいて困ったことや機械についての問題があれば、その都度助けてくれました。</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-5920" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-3.jpg" alt="interview111-3" width="1280" height="800" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-3.jpg 1280w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-3-300x188.jpg 300w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-3-768x480.jpg 768w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-3-1024x640.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1280px) 100vw, 1280px" /></p>
<h2>日本に帰るという選択</h2>
<h3>5年海外にいて、なぜ日本に帰ってきたのでしょうか？</h3>
<p>私はもう少しいても良かったのですが、夫が日本での職を得たので一緒に帰りました。帰国後は筑波大に所属して、8ヶ月ほど博士論文を書きつつ実験をしていました。その後、スウェーデンでの審査を受けて博士の最終試験に合格し、博士号取得となりました。</p>
<p>博士号取得後は、日本学術振興会のポスドク（PD+RPD）で5年、助教で2年研究を続けることができました。その後、公募で東京薬科大学の准教授になりました。当時、夫は他大学に所属して単身赴任していたのですが、この移動によって家族が揃って暮らせるようになったんです。</p>
<p>研究者の夫婦が一緒に暮らすというのは、本当に恵まれていることなんです。それぞれのやりたいことができるところ、ポジションで考えると近辺の職場になることは珍しいですし。これからどうなるかもわからないので今を楽しく過ごしています。</p>
<h2>国による働き方、考え方に触れることで変わった私の意識</h2>
<h3>研究への熱をとても感じるのですが、お母さんでもあるのですよね？</h3>
<p>そうです。高校1年生の息子と小学校4年生の娘がいます。息子は、朝の6時の電車に乗るので、それまでにお弁当を作って朝ご飯を食べさせて送り出します。娘もお弁当なので大変です！朝のうちに夕ご飯の準備をしておきます。そうすると、夜帰ってきてからレンジで温めるだけで晩ご飯ができます。</p>
<p>時間がない中でご飯を作るので手抜き料理、時短料理が得意になります。手を抜きつつ夫の助けを借りて家事もこなしています。完璧なんて程遠いですが、生きていればそれでいいかなと思っています（笑）。オランダの経験からにそう考えるようになりました。</p>
<h3>海外留学から得た子育てに対する考え方ってどんなものなのですか？</h3>
<p>ヨーロッパの女性たちはバリバリ働いて子どもも2人、3人いるというのが普通なんですよね。だから日本でいう「手抜き」は「効率的」になります。</p>
<p>向こうの人に言われてびっくりしたのが、日本人はなぜ1日3食温かいご飯がでるんだ？そんなの1日に1回でいいじゃないか、ということでした。ハッとしましたね。食堂でお昼に温かいご飯を食べたら、夜はコールドミールでもOKって。また、栄養は1日単位で計算するのではなく1週間単位で考えればよくて、昨日足りない栄養は今日取ればいい、みたいな。1週間あれば、献立を考える方も楽ですよね。</p>
<p>夫もそんな生活を身近に見ていたから、家事も助けてくれますし、今の私の手抜き具合も認めてくれているのかもしれません。でも、夫から「何か手伝う？」などと言われると、少し残念な気持ちになります。とても恵まれているはずなのに。女性も男性もできることを各自が積極的に行えば、もっともっと働く女性に優しい環境になる、と思いますね。</p>
<h2>研究もプライベートも大切にしたい</h2>
<h3>休日は何をされているんですか？</h3>
<p>基本は土日も研究室に来ています。子どもが土曜も学校があるので送り出してから、ふらっと研究室にきて平日より短時間働いて子どもの下校に合わせて帰ります。マウスの様子を見て、次週の実験準備をしたりする程度です。準備しおくと、次週の実験がスムーズに上手く進められるので。</p>
<p>でも、嫌々来ている訳ではなくて、研究が楽しいから毎日自然と向かってしまいます。実は、子どもを帝王切開で産む前日まで、動物室に入っていたくらい研究室が好きです。出産したらしばらく会えなくなるマウス達が心配で（笑）。</p>
<h3>先生にとって研究が趣味となっているように感じます！</h3>
<p>まさに趣味であり、楽しみであり、生きがいです。これからの目標ですが、今の研究を完成させていい形でまとめていくこと。頑張ってくれている学生さんたちと喜びを分かち合うことですね。</p>
<p>もちろん、子どもたちも生きがいです。二人の子どもが自分で生きていけるように、無事に希望通りの進路に進めるように全力でフォローしていきます。子どもたちが成長していくと自分の時間が持てるので、もっともっと研究できる！とそれも楽しみです。今の環境で停まりたくないのが本音なので、研究者として貪欲に志高く成長していきたいです。</p>
<h2>可能性を秘めた若い世代に伝えたいこと</h2>
<h3>高校時代に数学が苦手だから文系、と決めつけている友達がいたのですが、文理選択に悩む中高生に向けて何かメッセージをお願いします。</h3>
<p>「なんでだろう」という好奇心があれば、理系の学部は本当に楽しめると思いますよ。数学が苦手だから文系、と決めつけるのではなくて、何か疑問持ったら解決してみよう！と挑戦してほしいです。</p>
<p>結果を導くための様々なアプローチ方法、しかも答えは1つとは限らない、それがこの分野の魅力だと思います。フレキシビリティを持った学問だから、1人1人にあった学びや研究ができます。やってだめなら、その次の手を考えるのが楽しい。何事もやってみないとわかりませんよね。</p>
<h3>私たち大学生に、人生の先輩としてメッセージをお願いします。</h3>
<p>学生さんは無限の可能性を持っているので、その可能性にかけて、とりあえずトライしてみてほしいですね。これでいいや、と思わないでもっと理想を高く持っていてほしいです。</p>
<p>みなさんはダイアモンドの原石なので、輝く前にやめちゃったらもったいないですよ。自分で自分はこうだからと限界を決めるのではなくて、限界を自分で決めてしまう前にとりあえず一歩、さらに一歩、という感じで先に進んでいってほしいです。</p>
<p>学業や研究、就活などの場面で限界かもって思うことが山ほどあるかもしれません。でも少し見方や考え方を変えてみたらどうでしょうか。これから羽ばたくみなさんには、柔軟にそして自分に負けないで活躍してほしいと願っています。</p>
<h2>インタビューを終えて</h2>
<p>研究に対する熱意を感じるとともに、何事にも前向きに取り組んでいる姿が印象的でした。私自身、先生の考え方を聞いて納得する箇所がたくさんありました。普段知ることのできない研究者の姿をみなさんにも届けることができて良かったです。この記事をきっかけに、「頑張ろう！」と1人でも多くの方が思ってくれたら嬉しいです。</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-5922" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-1.jpg" alt="interview111-1" width="1280" height="800" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-1.jpg 1280w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-1-300x188.jpg 300w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-1-768x480.jpg 768w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/interview111-1-1024x640.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1280px) 100vw, 1280px" /></p>
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		<title>映像の可能性ってなんだろうか（CMディレクター）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle094/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 08 Mar 2014 06:44:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[CMディレクター]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
		<category><![CDATA[クリエイティブ]]></category>
		<category><![CDATA[クリエイティブ（職種）]]></category>
		<category><![CDATA[社会起業]]></category>
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					<description><![CDATA[クリエイティブで華やかなイメージがあるCM業界。 しかしそこにある種の違和感を抱き、ソーシャルな映像活動を始め、現在はCMディレクター、Interviewers、PVプロボノと複数のフィールドを往来している新井博子さんに [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="kakomi">
<p>クリエイティブで華やかなイメージがあるCM業界。 しかしそこにある種の違和感を抱き、ソーシャルな映像活動を始め、現在はCMディレクター、<a href="http://interviewers.jp/" target="_blank" rel="noopener">Interviewers</a>、<a href="http://pvprobono.com/" target="_blank" rel="noopener">PVプロボノ</a>と複数のフィールドを往来している新井博子さんにインタビューをしてきました。（2014年3月時点の情報です）</p>
</div>
<h3>CMディレクターになった経緯を教えてください。</h3>
<p>女子美術大学を出て、株式会社パラゴンというCMプロダクションに入社しました。私がＣＭプロダクションに興味を持ったきっかけは、大学の１つ上の代にCMプロダクションばかりを受けている先輩がいたからです。その先輩はCMがいかに楽しいものかを、なぜか私にひたすら説いてくれました（笑）。それで、いざ自分が就職することを考えた時にCM業界を受けてみようと思いました。</p>
<p>入社して初めはプロダクションマネージャーという、そのまま続けていくとプロデューサー（制作全体を統括する人。予算調整や管理、スタッフの人事など。）になれる職に就いたのですが、どうしてもディレクター（制作物の作品としての責任を持つ人。企画から制作に関与して業務全般を司る。）がやりたくて、4年後に企画演出部という部署に移りました。そうしてCMディレクターを始めてから160本くらいの作品をつくっています。その10年後には会社を辞めて、フリーランスになりました。もちろん不安な気持ちも少しありましたが、この業界ではある程度の経験を積むと会社を辞めて独立するという流れがあったので、私にとってフリーになることはとても自然な流れでした。</p>
<h2>とにかく絵が描きたいから、油絵科へ</h2>
<h3>小さい頃から映像に興味があったのでしょうか。</h3>
<p>小さい頃は絵ばかり描いている子どもでした。とにかく絵が大好きで、ひたすら描いていましたね。だから絵だけは勉強しなくてもできました（笑）。女子美術大学の付属校へ進学して、放課後はアトリエに通ってずっと絵を描いていました。大学の進路についても、就職のことを考える人はデザイン科を選ぶ傾向があるのですが、私はとにかく絵を描きたかったので油絵科へと進みました。</p>
<p>ただ絵の道で食べていこうとは全く考えていなくて、就職活動の時に絵のことはスパッと捨ててしまいました。絵を描くことが大好きでずっとここまできたのに、なんだか不思議ですね。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-9148" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_02.jpg" alt="" width="640" height="400" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_02.jpg 640w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_02-300x188.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h2>広告業界の商業映像が私のすべてでした</h2>
<h3>ソーシャルな映像活動を始めるきっかけは何だったのでしょうか。</h3>
<p>3.11の東日本大震災をきっかけに私自身マインドシフトしていきました。テレビのオンエアで、全ての CMがストップしたことが大きなきっかけですね。ACの広告が繰り返し流れていたのをみなさん覚えていると思います。それまでは広告の商業映像が私の世界のすべてで、そこにやりがいもあって、満足感もありました。しかし震災を機に、これだけじゃいけないという強い思いが湧いてきました。なぜなら今まで自分がやってきたことが、この状況下ではまるで役に立たないと思ったからです。だから自主的に、主体的に、何か新しいことを始めなくてはいけないと考えました。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-9149" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_03.jpg" alt="" width="640" height="400" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_03.jpg 640w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_03-300x188.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h2>誰も待っていない活動を勝手にやっている</h2>
<p><a href="http://interviewers.jp/" target="_blank" rel="noopener">Interviewers</a>の<a href="https://www.facebook.com/interviewers" target="_blank" rel="noopener">Facebookページ</a>を立ち上げたとき、アクセス数が30人くらいだったんですよ。誰も見てない・・・みたいな(笑)。だけどそれが逆に面白いなと思いました。私が今までやってきたCM制作はクライアントからこの人に依頼すれば大丈夫という信頼と期待があって成り立っていたので、誰にも期待されてない活動をやっている自分というのがとても面白いと感じました。それからは他人からどう思われるとか、そういう評価が恐くなくなりました。誰も待ってない活動を勝手にやっているので、精神的にも強くなれたのかもしれないですね。ただ<a href="http://interviewers.jp/" target="_blank" rel="noopener">Interviewers</a>を始めた時から、これは世の中のニーズが確実にあると思いましたし、なによりも私自身が「これは面白い！」と思ってやっていた活動だったので、そういう根拠のない確信が故に、それを信じてやっていました。</p>
<h3>ソーシャルな活動の面白さはどういったところでしょうか。</h3>
<p>震災のあと、映像で何かできることはないか自分でいろいろと調べていました。その中でボランティアとして東北の復興支援のプロモーションビデオを制作することになりました。そこで映像の新たな可能性に気づき、人と人とをつなげる映像活動をやってみたら面白いのではないかと思い付きました。そうして小さなカメラを購入し、インタビューを撮ったのが<a href="http://interviewers.jp/" target="_blank" rel="noopener">Interviewers</a>の始まりです。</p>
<p>私がビジネスとしてやっている商業映像（CM）も誰かに影響を与えるとか、気持ちを変えている可能性はあるけど、その規模が大きすぎて人々の気持ちの変化がダイレクトで伝わってきませんでした。一方で、ソーシャルな映像の場合はその変化というのが完璧に私へと伝わってきました。</p>
<p>例えばFacebookにインタビュー映像を載せたときに、インタビューの相手から「新井さん、素敵な映像をありがとう！」と言われたり、投稿に「いいね！」がついたり、誰かがその投稿をシェアして他の誰かのコメントがついていたりする。そうやって映像をみた人の気持ちの変化が見えるようになりました。そういうところに生きがいというか、やりがいを強く感じています。そういった意味ではソーシャルな映像を作ることは自分の喜びのためでもありますし、インタビューした人に感謝されることとか、1万人、1千人という規模ではなく、1人でも2人でも喜んでくれたらと思っています。1人の人の気持ちを変えることができるっていう面白さが、ソーシャル映像の場合はあるのかなと。</p>
<p>なにより、私自身がさまざまな活動をされている人たちと知り合えるのもすごく楽しいですね。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-9150" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_04.jpg" alt="" width="640" height="400" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_04.jpg 640w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_04-300x188.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h2>複数のフィールドを行ったり来たりしている</h2>
<h3>多くの社会人の方は1つの仕事だけをするイメージがあるのですが、新井さんの場合は複数の活動を同時進行で行っているような印象を持ちました。</h3>
<p>インタビューで得たことをCMにフィードバックして、逆にCMで感じたことをインタビューにフィードバックする。そうやってお互いの活動にプラスなことを還元し合っています。そういうバランスを保つことで2つが成立していますし、もちろんその時によって時間を使う割合の大小関係はありますが、基本的にはどっちかがメインという意識はなくて、私にとっては2つともメインですね。</p>
<h2>映像をソーシャル化するという使命</h2>
<h3>最近動画アプリなども増えて、気軽に映像撮る人が増えたように感じます。</h3>
<p>そうですよね。例えば私が80、90歳のおばあちゃんになっても難なく映像を作れるとか、より多くの人がクリエーターになる時代がやってくるのではないかと思います。最近さまざまな映像活動を行っていく中で、映像をもっとソーシャル化するという私の目指す場所がようやく見えてきました。映像がソーシャル化するというのは、要するに今まで映像製作をしたことがない人たちも映像を作るようになっていって、そういった文化が多くの人に広まっていく。そうして裾野が広がっていくと、その上にある商業映像のクオリティーも引き上げられて、全体的にものすごく活性化すると考えています。これからは写真やテキストだけではなくて、映像によるコミュニケーションもどんどん増えていくと思いますし、そうしたニーズにはできる限り応えていきたいと思っています。</p>
<h3>新井さん、ありがとうございました。最後に、ご自身の未来予想はどのように描かれていますか。</h3>
<p>漠然に言うと、すごく豊かな人脈に囲まれて、わいわいと楽しくおばあちゃん生活を過ごしていけたらいいなと思っています。映像を撮る若い世代の人たちをサポートしていくのか、おばあちゃんになっても自分で撮るのかわからないですが、そういった未来も描いています。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-9151" src="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_05.jpg" alt="" width="640" height="400" srcset="https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_05.jpg 640w, https://hanajob.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/arai_05-300x188.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h3>インタビューを終えて（ハナジョブ学生記者）</h3>
<p>好きなことに忠実、かつ新しいことにも敏感で、興味を持ったら即行動というスタンスがとても印象的でした。私は数年後どんな職に就いているのかわかりませんが、1つに職に囚われることなく、柔軟に動けるような社会人になりたいとインタビューを通して改めて思いました。 また、新井さんの気さくでいて決して飾ることのない人柄に触れて、心温かな気持ちになりました。私もハングリー精神を忘れずに頑張ろうと思います。新井さん、そして運営メンバーの皆さん、本当にありがとうございました！</p>
<div class="kakomi">
<p>新井博子（あらいひろこ）</p>
<p><strong>1970年</strong> ：東京都生まれ<br />
<strong>1993年</strong> ：女子美術大学芸術学部卒業 同年、CM 制作会社(株)パラゴン入社</p>
<p><strong>2008年3月</strong> ：フリーランスのCM ・広告映像のディレクターとし独立。日立／キユーピー／ヤマザキナビスコ／明治乳業／ユニチャーム／他多数 などのCMを手がける。現在もCMディレクターとして活躍する傍ら、映像を用いたソーシャルな活動を行なう。</p>
<p><strong>2011年7月〜8月</strong>：東北の復興イベント<a href="http://www.youtube.com/watch?v=Uj0OLV74Jts" target="_blank" rel="noopener">『ONE BALL PROJECT』PVのボランティア制作</a></p>
<p><strong>2011年10月</strong>：人と人とを映像でつなげる活動『interviewers』を始める。 様々なフィールドで活動する人たちのインタビュークリップを作成し、掲載。→<a href="http://interviewers.jp/" target="_blank" rel="noopener">interviewers</a></p>
<p><strong>2013年4月</strong>：PVプロボノを立ち上げる。映像制作のスキルで社会課題を解決する非営利活動。→<a href="http://pvprobono.com/project" target="_blank" rel="noopener">PVプロボノ </a></p>
</div>
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		<title>可能性を探してチャンスに反応、これだと信じたら全力（海士町役場）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle084/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 16 Feb 2012 10:18:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
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					<description><![CDATA[転職先は人口約2300人の離島だった……。豊かな自然とあたたかい人々、この島に運命を感じて移住した岡本さん。新天地では、海士（あま）町の活性化のために活動する多くの仲間や先輩たちと頑張る日々。東京から日本海の離島への移住 [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="kakomi">
<p>転職先は人口約2300人の離島だった……。豊かな自然とあたたかい人々、この島に運命を感じて移住した岡本さん。新天地では、海士（あま）町の活性化のために活動する多くの仲間や先輩たちと頑張る日々。東京から日本海の離島への移住という大決断によって得られた仕事のやりがいを伺いました。（2012年2月時点の情報です。）</p>
</div>
<h2>紆余曲折を経て離島の広報担当に！</h2>
<h3>現在のお仕事の内容を教えてください。</h3>
<p>現在は、総務課情報政策係で「広報海士」という広報紙の編集・制作を主にやっています。海士町の活動や人を取り上げて、海士町の魅力を発信しています。島の人たちは、海士が外から評価されていることを意外と知らないんです。本土にいる島出身の人にも700部くらい送っています。「海士は今こんな元気な活動をしていますよ」と伝えるのも大切な役割なんですよ。役場のホームページの更新、プレスリリースの発行、取材対応も私の仕事です。</p>
<p>「広報海士」はホームページにもカラーで掲載していますが、海士町には本屋が一軒しかなく活字に飢えている人が多いようです。みなさんすみずみまで読んでくださったり反応が返ってきたりすると嬉しいです。大変ですがやりがいがあります。</p>
<p>ほかには、なぜか成人式の企画･事務局も担当しています（笑）。海士町の成人式は、本土に出ている若者たちが帰省しやすいように真夏のお盆にやるのですが、広報とはまた違った面白さのある仕事です。若い子たちが故郷の素晴らしさを再確認し、前向きな気持ちでUターンしてきてくれることを考えると情報発信の対象として力が入ります。</p>
<p>今年は、体験型の企画として海藻の植林をしました。海中展望船に乗って、近海の磯焼けが進んだエリアまでクルージングし、船の上から岩にくくりつけた海藻の赤ちゃんを落として。海士町でも進みつつある環境問題をちゃんと知り、美しい海を守り育ててゆく大切さを意識してほしい。郷土愛をもっと深めてもらいたいっていう気持ちがあって企画したんです。役場の先輩や課長さん、観光協会の方などの協力もあって実現し、新成人の皆さんにも好評でした。</p>
<h3>現在のお仕事につくまで、どのようなお仕事を経験されましたか？</h3>
<p>大学卒業後、大手印刷会社に入社しました。出身地の三重県で田舎の高校生をやっていた頃、当時話題になったJRのポスターに憧れていて、ポスターを作るような仕事がしたいと思って。企画部門を希望しましたが、事業戦略部門の配属になりました。すごく難しい仕事だったけど、がんばろうと思って中小企業診断士の学校に通ったんです。でも、どうも違うと思って、学校は辞めました（笑）。</p>
<p>もともと絵を描くことが好きで、自分のセンスを生かせる場に行きたくて常に他の可能性を探していました。昼間は会社で働きながら、夜にせっせとイラストレーターになるための学校に通った時期もありました。でも、それもどこか違うな、と。それがあるとき、私がやりたいことは『編集』だ！と気づいたんです。それで、今度は｢編集・ライター養成講座｣に行きました。それがものすごく楽しくて（笑）。取材する面白さ、文章を書いてコンテンツをデザインする喜びを知ってしまいました。</p>
<p>すると偶然知り合ったIT企業の社長さんに、「編集の仕事がしたいならうちでやればいい」と言われ転職を決意しました。ITベンチャー企業ではコンテンツの企画・編集を担当しました。その後、新聞社のデジタル新規事業の立ち上げに関わったことがきっかけで、新聞社に転職しました。新聞社では経済部の記者として、化粧品・薬品、日用品やファッションなどの会社を担当していました。</p>
<h3>それから海士町に移住するきっかけとなった出来事はなんでしょうか。</h3>
<p>｢多くの若者が移住し、独自のまちづくりで注目されている離島を取材せよ｣という命を受け、新聞記者として仕事で海士町に来たことがきっかけです。</p>
<p>海士町は第一次産業が漁業も農業も林業も畜産も全部見られるので、海士町に都会の大学生を送り込みそれらをすべて体験してもらおうという某社のツアー企画に同行取材しました。大学生と一緒に「隠岐自然村」（都市農村交流センター）に泊まって、イカ釣り漁船にも乗り、大学生が目をキラキラさせて、一週間の間に変わっていく姿を見て感動しました。</p>
<p>またIターンとして教育分野で活躍されている方にお会いして、「ここにはあなたが活躍する場があるから来たかったらいつでも来てほしい」と言われ、なんだかすごく嬉しかったです。必要とされる喜びというか…。もちろん当時は海士町への移住なんて全然考えていませんでしたけど。</p>
<p>でも、東京に戻っても海士町のことは気になっていました。10ヶ月ほど経ったある日、海士町で知り合った方から電話がかかって来たんです。「海士町に来ませんか？あなたがやるべき仕事があるんです」と。このときはビビッときました。</p>
<p>すっかり行く気になっていたとき、東京で海士町長とサシ飲みする機会に恵まれました。町長は「お互い干渉しあわない都会の暮らしに慣れている人は、海士の人と人との近い距離感がダメな人もいる。だから、前のめりにならずにお試しのつもりでどうぞ。でも、来るからにはちゃんと面倒見ますから。」と言ってくださったんです。その日は遅くまで、隠岐の地酒を酌み交わし、この方なら信じられると思って、移住を決意しました。</p>
<h3>海士町への移住についてご両親の反応は？</h3>
<p>突然のことで最初は呆然とし、｢理解できない…｣とった様子でしたが、必死で説得しました。今では親も応援してくれています。最初は臨時職員だったんです。春に海士町に来て、秋に職員試験を受けて、2年目の春に正職員になりました。特に父親は公務員だったので、私が海士町役場の職員になったときにはとても喜びましたね。大卒で最初に就職するときに国家公務員試験を受けるように言われていたんですが、ずっと拒否していたんです。あんなに嫌だったのに、今は父親と同じ公務員としてやっています。わからないものですね。</p>
<h2>自分の輪郭がはっきりする場所、海士町。岡本さんにとって海士町の魅力とは？</h2>
<h3>海士町の魅力について教えてください。</h3>
<p>「人」としか言いようがないです。例えば移住前、某課長が出張で東京に来たときは、一度しか会ったことがない記者の私のために海士人Tシャツを持ってきてくれたり。親愛の気持ちを伝える小さな心配りが、海士ファンを掴んで離さない。また、特に私は人に惚れて動くタイプなので、この人は信じられるって思うと仲間になりたいって思います。最初に海士を訪れたときも、いきいきと海士のまちづくりを語る人たちと出会い、｢一緒に頑張れたら素敵だな｣と感じた。海士ファンはそうやって広がっていると思います。伝染力がありますね。</p>
<h3>海士町のキャッチコピーである「ないものはない」の制作秘話について教えてください。</h3>
<p>海士町役場には統一されたデザインの名刺がなかったので、統一しようと部署を超えた5名のプロジェクトメンバーが集められました。海士町を表すキーワードを探してブレストを重ねたり、デザイナーさんと打ち合わせしたりしながら、最終的に「ないものはない」というコピーがが生まれました。「なんでも有る」と「無いものは無いけど有るもので頑張る、余計なものはいらない」という、「有る」と「無い」の両方の意味が含まれています。</p>
<p>また、「ないものはない」の対抗馬として最後まで残った「やっはず」（海士弁で「やればできるはず」という意味）が、今ではプロジェクトのチーム名になっています。今まで部署横断チームがなかったので、若い世代がそれぞれの課題を共有してまちづくりについて話せるようになったことに大きな価値があると思います。</p>
<h3>海士町と東京の違いはなんですか。</h3>
<p>海士町では、一人ひとりが埋没しない気がします。自分の輪郭がはっきりするというか。「あなただからこの仕事を頼みたい、あなたに来てほしい」と自分のちょっとしたできることが求められていて、自分らしく働いて、それでちゃんと役に立てるという喜びが大きい。そして、困ったときには地域の人が助けてくれる。もちつもたれつ、その‘おかげさま’の循環で、小さな社会が回っているのが分かる。東京にいたときとは全く違います。</p>
<p>あと、海士町には「偉大なアマチュアが多い」というのも特徴ですね。民謡や踊り、楽器など、皆さん多芸です！　目に入る自然の変化や釣れる魚などから日々感じる季節感も嬉しい。生きている、暮らしている実感ですね。そういうものひっくるめて、気持ちいいです。</p>
<h3>これからの目標はなんですか。</h3>
<p>憧れの海士人に近づきたいです。憧れている人があちこちにいるからその分やりたいこともいっぱいあります。米作り、野菜作り、素潜り、三味線、郷土料理など、もっと上手になりたいことがたくさんあって楽しいです。おじいちゃん、おばあちゃんは知恵が豊かで物知り。お師匠さんがいっぱいいるのでわくわくします。だから飽きないですし、学ぶって快感なので、東京の刺激とは違った快感が多い。この好奇心を保ちつつ、地に足つけてじっくり暮らしていきたいです。</p>
<h3>学生にアドバイスをお願いします。</h3>
<p>早い段階から選択肢を決めすぎないでほしいです。決めるとその他のいろんなチャンスや出会いがシャットアウトされてしまいがち。私は可能性を見つけるのが好きなので、なるべく開いていたい。いろんなチャンスに巡り会え、人とのつながりも広がって、より自分らしい人生に近づけると思います。海士町に来た人はそういうチャンスに反応して、信じて、移住を決めているはず。いろんなところに行って、頭をやわらかくしていろんな人と話せば、視野も広がるし感度も上がると思います。</p>
<h3>インタビューを終えて（ハナジョブ学生記者）</h3>
<p>やると決めたら全力で取り組み、でも｢それしかない｣という思い込みには縛られない。その中で、絵やデザインのセンスが活かせる仕事、情報発信に関わる仕事として、『編集』という軸でブレのない岡本さん。その裏には興味や希望を明確にし、人との出会いから転職や島への移住を実行するという決断力があることを知りました。島内外の人々に海士町を全力で伝え、自分もいつか素敵な海士人になりたいと島暮らしを楽しむ姿勢がとても魅力的でした。ありがとうございました。</p>
<div class="kakomi">
<p><strong>岡本さんのお仕事（海士町役場総務課・情報政策係）</strong><br />
情報政策係では、広報紙「広報海士」の制作・発行、海士町役場のホームページの運営、最近では光ファイバーの全戸整備にともなって告知情報サービスや「あまコミュニティCh（チャンネル）」という海士町独自のテレビ局の運営もスタートするなど、海士町の情報発信分野における各種施策を行っています。<br />
そのなかで岡本さんが担当している「広報海士」は、行政が発信する媒体としてはとても大きな役割を担っています。</p>
<p><strong>海士町役場</strong><br />
日本海沖約60kmに浮かぶ隠岐諸島の一つ、中ノ島にある町。1島1町で人口は約2300人。主産業は漁業で、湧水が豊富なため稲作も盛ん。少子高齢化が進む過疎地だが、‘持続可能な島’を目指し、地域資源に付加価値をつけて海士ブランドとして売り出す独自の産業振興策を推進。<br />
近年は若いIターン者の増加が著しく、Uターンを含む地元民との交流から生まれるパワーやアイデアを活かした柔軟な発想のまちづくりが注目されている。<a href="http://www.town.ama.shimane.jp/" target="_blank" rel="noopener">海士町のサイトを見る！</a></p>
</div>
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		<item>
		<title>自分の仕事の一つひとつに愛情を注ぎたい（JICA）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle071/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 16 Mar 2011 06:05:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[JICA]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
		<category><![CDATA[国際協力機構]]></category>
		<category><![CDATA[転職]]></category>
		<category><![CDATA[銀行]]></category>
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					<description><![CDATA[小さい頃から親しんできた中国と関わる仕事がしたい。その思いを軸に新卒で銀行に入社し、3年目でJICAに転職された松浦さん。どのようなきっかけで転職されたのでしょうか。そして「国際協力」とは具体的にどのような方が動かしてい [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="kakomi">
<p>小さい頃から親しんできた中国と関わる仕事がしたい。その思いを軸に新卒で銀行に入社し、3年目でJICAに転職された松浦さん。どのようなきっかけで転職されたのでしょうか。そして「国際協力」とは具体的にどのような方が動かしているのでしょうか。（2011年3月時点の情報です）</p>
</div>
<h2>国際協力という夢を追いかけ、3年目に銀行からJICAに転職！そのきっかけは？</h2>
<h3>現在のお仕事、「国際科学技術協力室」ではどのような仕事をなさっているのでしょうか？</h3>
<p>平成20年より新しく始まった「地球規模課題に対応する科学技術協力」を担当しています。これは、日本が誇る科学技術の知見を外交と結びつけ、地球規模の課題の解決を目指そうというプログラムで、政府開発援助（ODA）の新しい形態といえます。「国際科学技術協力室」もプログラムのスタートと同時に創設されました。</p>
<p>このプログラムでは、環境・エネルギーや防災、水資源、感染症といった途上国が直面している地球規模の課題を解決することを目的として、第一線で活躍されている日本の研究者がJICA専門家として途上国に赴き、相手国側の研究者とともに一つのプロジェクトとして国際共同研究を行います。</p>
<p>私は制度の詳細設計や予算管理、新規案件の採択関連業務などを担当しています。実際に個別の案件をマネジメントしていくのは課題ごとに案件を担当している別の部署になるので、私は各案件担当部を取りまとめる立場でバックアップをしています。</p>
<h3>現在の仕事を選んだきっかけは何でしょうか。</h3>
<p>小学生の頃、父の仕事の都合で家族で上海に住んでいました。中国のことがとても好きになり、将来は中国と関わる仕事がしたいと思うきっかけになりました。大学時代は、アルバイトをして貯めたお金で何度も中国に行きましたし、アジア科に進み、卒論は中国の環境問題をテーマにしました。中国の文化ももちろん好きなのですが、幼いながらに中国の人たちに親切にしていただいたことが忘れられなかったのです。</p>
<p>中国で仕事がしたい、という思いを軸に、就職活動では都市銀行と総合商社の二つに的を絞りました。そして最初に内定が出たのが都市銀行です。次に内定をもらった総合商社に後ろ髪をひかれつつも、日本の企業が海外進出するお手伝いがしたいと銀行に心を決めました。</p>
<h3>なぜ、銀行からJICAへの転向を決めたのでしょうか。理由とその契機を聞かせてください。</h3>
<p>「ネパールにかける虹の橋」という絵本があります。私の同郷の愛媛県の医師が、ネパールの結核対策に取り組む話です。小学校1年生の時に読み、「こういうことがやりたい！」と強く思いました。青年海外協力隊に入りたいと小さい頃に父親に言ったこともあります。当時は心配だと反対されましたが（笑）、国際協力への道は自分の中でずっと引っかかっていたのかもしれません。</p>
<p>銀行では支店業務をひと通り経験し、非常に面白い仕事だと思っていました。ただ、株式会社は利益を上げるのが第一ですし、自分の目指す海外への道は少し遠いのではないかと感じ始めていました。</p>
<p>そんなとき、NHKの再放送で中国の農村の学校に行けない子どもたちの特集をたまたま見て、「ああこれだ！」とピンときました。偶然にも、翌日の日経新聞の求人広告にJICAの社会人採用の募集があり、小さい頃から関心のあった国際協力に携わるにはここしかないのではと試験を受けて転職しました。</p>
<h3>JICA入構後にはどのような仕事をされたのでしょうか？</h3>
<p>まずは農林水産開発調査部で、途上国の農林水産政策の立案を支える仕事をしました。具体的にはカンボジアの米流通システム改善計画や、グアテマラ農村の貧困削減計画などを担当しました。転職してすぐに途上国に出張に行かせていただき、大変刺激的な日々でした。</p>
<p>2年後に青年海外協力隊事務局に異動になり、ボランティア派遣業務を担当しました。その後は北京にある中国事務所で、保健医療分野のプロジェクトを担当しました。当時はちょうどSARSが流行した直後でして、新興・再興感染症対策プロジェクトや子供たちの予防接種強化プロジェクトなどに携わりました。その後、長男の出産に合わせて中国事務所より帰国し、育児休業中に長女も出産、合計約3年間の育休後に、今の国際科学技術協力室に復職しました。</p>
<h2>「月曜日が来るのが苦でない」仕事が好きだと思えるJICAの環境、そして松浦さんの仕事に対する思いとは？</h2>
<h3>中国事務所時代に上のお子さんを妊娠されたとのことですが、JICAの産休・育休の制度はどのようなものなのでしょうか。</h3>
<p>JICAでは子ども一人につき3歳まで育児休業を取得することができます。私の場合長男と長女は2歳違いなので、5年間取得する権利はありました。たださすがに復職に相当の心構えが必要になるので3年で戻りました。</p>
<h3>なるほど、充実した制度ですね。現在はどのようにして仕事と家庭を両立されているのでしょうか？</h3>
<p>実は私の夫もJICA職員だったのですが、現在は大学に通っています。そういう意味では会社勤めの方と比べると自由がききますので、保育園の送り迎えも夕食作りも分担しており、本当に助かっています。</p>
<p>職場でも上司や同僚の支えがとても大きいですね。JICAは女性にはもちろん、子育てをする男性にとっても働きやすい環境で、男性でも育休を取る方もいますし、奥さんの海外出張中の家事と育児は全部自分でやっているという方もいます。JICAは、それが男女の区別なく自然にできる雰囲気だと感じます。</p>
<h3>仕事の楽しさを教えてください。</h3>
<p>現在の部署では制度の立ち上げに携わってきたので、この新しいプログラムである「科学技術協力を始めてよかった」と評価してもらえたときはとても嬉しいです。JICA内外からの相談や問い合わせに対して自分なりにサポートができたときもやりがいを感じますね。</p>
<h3>では仕事の苦労はなんでしょうか。</h3>
<p>通常のODA事業は外務省とJICAが中心となって行うのですが、この科学技術協力は文部科学省や（独）科学技術振興機構、（独）日本学術振興会と連携して実施・運営しているところが新しい点です。従来の開発援助のコミュニティにはなかった視点もありますので、関係者との合意の形成に時間を要することもありますね。</p>
<p>途上国のニーズは何かと考えたときに、JICAのルールだけにこだわっていてはなかなか進みません。だからと言ってそのルールを簡単に破ることもできないので、落とし所を探るのは難しいです。しかしそれを関係者が納得のいく形で解決できたときには大きなやりがいに変わるように思います。</p>
<h3>仕事で心がけていることや、大事にしている思いを教えてください。</h3>
<p>ミクロなところでいくと、相手にとって気持ちの良い対応を心がけるということですね。例えば、当たり前のことですが、相談が来たらできるだけ早く回答を出すこと。できないときにもそこで「できません」と突き放してしまうのではなく、代替案を提案します。相手の方が不快な気持ちにならないように、気持よく仕事ができるように、心がけていますね。銀行の頃に叩き込まれた「お客様第一主義」の精神が役に立っていると感じます（笑）。</p>
<p>マクロなところでいくと、愛情を注ぐことを大事にしています。例えば、今新しい制度を作っているのですが、子どもを育てるように愛情を注ぎながら、みんなに愛される制度に育てたいなと思っています。自分が異動した後も、将来的にずっとみんなに愛される制度になるにはどうしたらよいか考えています。</p>
<h3>松浦さんにとって仕事とは？</h3>
<p>私にとって仕事は、楽しみのひとつなのかなと思っています。育児休業に入って、専業主婦をしていたときも本当に楽しかったのですが、仕事をしないと社会との繋がりもなくなってしまう気がして。外の世界に出ていろいろな方と関わって、自分を磨きつつ仕事がしたいと考えて復職しました。</p>
<h3>では将来やりたいことは？</h3>
<p>海外出張にも行きたいし、子どもを連れて在外事務所にも赴任したいですね。子どもには、世界はこんなに広いんだよと教えてあげたいです。中国をさらに深めるのもいいのですが、アジアの他の国でも、行けるところならどこでも！</p>
<h3 class="red">仕事の先輩として、国際協力に関わりたいと思っている学生にメッセージをお願いします。</h3>
<p>国際協力と一口にいっても、いろいろな形があります。JICA職員も一つの方法ですが、国連職員や草の根レベルでのNGO、青年海外協力隊も重要な担い手です。自分がどういう形で国際協力に携わりたいか調べて、自分にぴったりのキャリアパスを探してみてはいかがでしょうか。</p>
<p>また途上国も様々なので、多様な価値観を知ることが重要です。そういう意味でもぜひ、学生時代にいろいろな人と話していろいろな活動をして経験を広げておくといいなと思います。</p>
<h3>では人生の先輩として学生にメッセージをお願いします。</h3>
<p>私が就職活動をしているときにも就活のマニュアル本はありましたが、それに左右されすぎると皆と同じになってしまいます。自分のやってきたわずかなことでも、それを大切にして前面に出せば、自分の特長としてアピールできると思います。</p>
<p>就活では「自分をどう見せるか」に囚われがちですが、結局ありのままの自分が一番ではないでしょうか。それは仕事でも同じだと思います。ありのままの自分が一番魅力的で個性があってきれいで強い、だからあまり肩肘をはらずに無理せずがんばってください。</p>
<h3>インタビューを終えて（ ハナジョブ学生記者）</h3>
<p>「背伸びをしないでありのままの自分を出せばよい」というメッセージは、小さい頃から温めてきた夢に素直に向かった松浦さんからお聞きできたからこそ、「自分のやりたいことを探して素直に立ち向かってみよう」という勇気をいただけました。素敵なお話をありがとうございました。</p>
<div class="kakomi">
<p><strong>お仕事紹介（国際科学技術協力室調査役）</strong></p>
<p>途上国における地球的規模の問題解決のため、日本の科学技術の知見とODAとを結びつけた新しいプログラムの詳細制度設計や予算管理、新規案件の採択関連業務が主な仕事です。</p>
<p><strong>国際協力機構（JICA）</strong></p>
<p>政府開発援助（ODA）の唯一の実施機関として、途上国の経済・社会の発展を支える活動を行っています。その分野は人材育成・制度設計、社会インフラ整備から大規模インフラ整備まで多岐に渡り、世界と日本の安定と平和のため、途上国における様々な問題解決に取り組んでいます。（<a href="http://www.jica.go.jp/" target="_blank" rel="noopener">サイトはこちら</a>）</p>
</div>
]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>宇宙放射線研究を日本の有人宇宙開発の強みに（JAXA）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle055/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Dec 2010 07:51:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[JAXA]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
		<category><![CDATA[技術]]></category>
		<category><![CDATA[技術（職種）]]></category>
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					<description><![CDATA[誰もが夢を見、希望を抱く、宇宙開発の第一線で働かれている永松さん。宇宙開発に携わりたいという思いの原点は、小学生の時に訪れた種子島だったそうです。夢を夢で終わらせず、日本の「宇宙放射線計測分野」の博士号取得者の第1号とな [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<blockquote><p>誰もが夢を見、希望を抱く、宇宙開発の第一線で働かれている永松さん。宇宙開発に携わりたいという思いの原点は、小学生の時に訪れた種子島だったそうです。夢を夢で終わらせず、日本の「宇宙放射線計測分野」の博士号取得者の第1号となった永松さんに、貴重なお話を伺いました。（2010年12月時点の情報です）</p></blockquote>
<div class="redB">
<h2>小学生時代の「将来の夢」から現実の「仕事」へ。そこに秘められた思いとは。</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">お仕事内容を教えてください。</h3>
<p>有人宇宙技術を支える基盤技術である宇宙放射線計測を担当しています。国際宇宙ステーションが飛行する高度約400kmの船内の最大の特徴は、微小重力と宇宙放射線による被ばくです。JAXAが開発したPADLES(パドレス)という線量計を使って被ばく線量の計測をします。</p>
<p>宇宙飛行士はこの線量計を身につけて搭乗し、宇宙滞在中に浴びた宇宙放射線による人体への被ばく線量を計測しています。次のフライトでどのくらい宇宙に滞在できるのかを割り出す被ばく管理に必要なデータとなります。</p>
<p>国際宇宙ステーションの環境には、人体に影響する宇宙放射線源が3種類（銀河宇宙線、太陽粒子線、捕捉粒子線）あって、これらの宇宙放射線が通過すると、飛跡に沿ってプラスチックに小さな穴ができるんですね。</p>
<p>帰還後にこのプラスチックの板を化学溶液で溶出して穴を大きく広げ、光学顕微鏡を使って画像解析をすることで、宇宙飛行士が浴びた放射線の量を割り出すことが出来るんです。この技術は日本が開発した技術で、現在では国際宇宙ステーションでの被ばく線量を計測する共通技術となっています。</p>
<p>宇宙放射線計測に関する研究の他に、「きぼう」日本実験棟で実施する実験の科学調整などを同時進行で担当しています。年に1～2回は国際会議に出席し、国際パートナーとの実験協力について話し合います。</p>
<h3 class="red">今までの仕事について教えてください。</h3>
<p>1年目は宇宙利用実験に関するプロジェクト予算執行管理に携わり、実験費用の管理から折衝、物品購入や伝票管理まで予算に関する仕事を幅広く行っていました。2年目からは、遺伝子組み換え実験委員会の事務局や放射線従事者の管理作業と、植物研究の企画を立ち上げる仕事をしました。</p>
<p>この研究は、植物は重力の無い宇宙でどのように育つのか、植物が重力を感受する遺伝子のしくみを解明するための実験です。ゼロからの立ち上げだったので、始めは研究に必要な消耗品の買い付けなどの地道な作業からのスタートでした。</p>
<p>4、5年目からは今の宇宙放射線計測に関する仕事が主要な業務となりました。担当したばかりの頃は、全く知識がなかったのですが、日本の宇宙放射線に関する機関（早稲田大学、高エネルギー加速器研究機構、放射線医学総合研究所）との協力・ご指導のおかげでもあり、2006年には、線量計の自動解析システムの構築とそのの測定精度がもっとも優れた線量計として評価をうけました。日本の放射線研究や画像解析に関する研究分野の底力、質の高さが実証した成果となりました。</p>
<div class="redB">
<h2>「宇宙放射線計測分野」の博士号取得者の第1号、その苦労とやりがいとは？</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">宇宙開発に興味を持ったのはいつごろ、どのようなきっかけだったのですか。</h3>
<p>最初に宇宙について興味を持ったのは小学校低学年の時、両親と一緒に種子島を訪れたことがきっかけでした。種子島には、JAXAの宇宙センターがあります。そこで実際に宇宙開発の現場を見ることができたのは、とても貴重な体験でしたね。小学4年生の時に、日本人初の3人の宇宙飛行士が選抜されたことも、さらに宇宙への興味を強めた大きなきっかけです。その中でも向井宇宙飛行士が担当するライフサイエンスに興味を抱くようになりました。</p>
<p>中学生の頃には、宇宙に関する新聞記事のスクラップを集めながら知識を深めて行きましたね。このスクラップが地元の新聞社に取り上げられたことがきっかけで、中学生の頃に向井宇宙飛行士と毛利宇宙飛行士にお会いすることができたのです。直接的に宇宙開発に携われなくても、民間企業を介して宇宙食を作ったり、ロケットに搭載する機械を作ったり、宇宙開発に携わる方法はたくさんあると知っていたので、どんな形でも夢は叶えたいと思っていました。</p>
<h3 class="red">では今の仕事のやりがいと苦労を教えてください。</h3>
<p>国際宇宙ステーションに搭乗している宇宙飛行士が開発したPADLES線量計を持っているのをリアルタイムで中継される映像を見るとき、嬉しく思いますね。自分たちの仕事が、宇宙飛行士やプロジェクト全体に繋がっていると感じる瞬間です。</p>
<p>これまでに、船内の宇宙環境の最大の特徴である、微小重力に関する重力生物学研究と、宇宙放射線に関する研究の両方が経験できて、とてもラッキーだと思います。そして日本の代表的な放射線研究機関や共同研究者の方々をふくめ、仲間に恵まれたことも感謝しています。</p>
<p>宇宙放射線研究の立ち上げから携わっているので、この分野が有人宇宙技術の発展とともに着実に育っているという充実感があります。国際宇宙ステーションを超えた月面・火星を含む次世代有人技術開発では、遮蔽や防護技術を含むこの宇宙放射線研究・技術開発が、最も主要な分野のひとつとなります。この分野がますます発展することが楽しみであると同時に、日本の宇宙機関が担うこの分野における役割の重要性も感じています。</p>
<h3 class="red">家庭との両立はどのように行っているのですか？</h3>
<p>24時間の保育園を利用しています。私たちが研究に利用している放射線加速器は、昼間はがん治療に使われ、深夜の時間帯のみに実験に使用する時間的な制約があります。特に研究の立ち上げ当初は、深夜に実験して朝の8時、9時に帰ってくることが週1～2回ありました。主人も長期出張などで不在が多いので、その時の保育園の助けは本当に大きかったです。</p>
<p>「きぼう」日本実験棟で実施する実験の科学調整のために、他の宇宙機関とテレビ電話やテレコンを使った打ち合わせをしなければならないことも週1～2回あります。当然時差の関係で深夜対応になってしまうのですが、この仕事は自宅から参加できるように配慮をいただいています。土日は基本的に休みなので保育園の行事や子供たちの習い事に一緒に行ったりして過ごしています。毎日帰宅が遅くて大変なこともありますが、夫の理解と子供たちが「お母さん頑張って」と応援してくれるからこそ、頑張ることができていますね。</p>
<h3 class="red">出産当時、産休、育休はどのようにとられたのですか？</h3>
<p>私が出産をした当時は、国際宇宙ステーションの日本の実験モジュール「きぼう」の搭載が目前に控えており、産後の産休のみの取得でした。育児休暇が制度が成立する前の日本では、誰もが生後6～8週で復帰せざるを得なかったので、あらためて次世代育成支援のための制度の充実や制度の取得しやすい環境づくりの必要性を感じました。</p>
<p>JAXAでも産休、育休の制度や時短制度も充実してきています。出産を経験した女性が増えると情報交換もしやすくなるので、とても安心ですね。パパママが活躍しやすい職場環境が充実できればいいとと思います。</p>
<h3 class="red">永松さんにとって仕事とは何ですか。</h3>
<p>生きがいであり、目標です。子供たちも応援してくれているので頑張ろうと思います。子供の応援が一番のモチベーションになりますね。職場の理解、家族の協力があって働けているということをいつも感謝するようにしています。</p>
<h3 class="red">これからの目標はありますか。</h3>
<p>宇宙放射線の研究をさらに深めて、日本が得意な有人宇宙技術と言えば宇宙放射線計測と言われるようにしたいです。国際宇宙ステーションで得た成果を生かして、次世代有人開発では、この分野を日本の宇宙開発の強みにしたいですね。機会があれば月面有人開発に携わってみたいとも思っています。</p>
<h3 class="red">同じ職業を目指す学生へメッセージをお願いします。</h3>
<p>宇宙開発の分野では、女性のエンジニアがもっともっと活躍できる場が生み出せるたくさんの可能性を秘めた場所で、宇宙開発も幅広い分野があります。柔軟で広い視野をもって、この分野に飛び込んできてほしいです。私自身も、女性が出産をしても子供を持ちながらでも働きやすい職場環境を作っていきたいと思っています。</p>
<h3 class="red">人生の先輩としてのアドバイスをお願いします。</h3>
<p>自分がやってみたいと思うことは、自ら主体的に動き出すこと！諦める前にまずは行動を起こしてほしいです。</p>
<h3 class="redB">インタビューを終えて（ ハナジョブ学生記者）</h3>
<p>小学生の時の夢を叶えた永松さんのお話を伺い、自分のやりたいことに対して常にひたむきであることの大切さを感じました。2人のお子さんを持ちながらも宇宙開発の第一線を走り続けるには大変な苦労があると思います。それでもがんばれるのは子供の応援があるから、という言葉が胸に響きました。永松さん、お忙しい中ありがとうございました！</p>
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</div>
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		<title>与えられたところで夢中になってやることが、結局その人の可能性を拓いていく。（千葉県知事）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle003/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 16 Oct 2008 06:50:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
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					<description><![CDATA[とても柔らかくやさしい口調で話してくださった、堂本千葉県知事。 お会いするまでは、強い女性というイメージがあったのだが、その印象は一瞬にして変わった。 なんと、学生時代の夢は「子どもが6人いる、専業主婦」！ ところがひょ [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>とても柔らかくやさしい口調で話してくださった、堂本千葉県知事。<br /> お会いするまでは、強い女性というイメージがあったのだが、その印象は一瞬にして変わった。</p>
<p>なんと、学生時代の夢は「子どもが6人いる、専業主婦」！<br /> ところがひょんなことからTBSに入社し、30年間ジャーナリストとして活躍。<br /> さらに政治家に転身し、千葉県知事へ。その過程でどんなことがあったのだろうか？</p>
<p>将来に悩む女子学生にとって、示唆に富むお話をたくさん聞くことが出来た。<br /> 今回は特別企画で前編後編に分けて、掲載。お楽しみに！！</p>
<h2>「専業主婦が夢」の学生時代からTBSに入社するまで</h2>
<h3>学生時代から現在までの道のりを教えていただけますか？</h3>
<p>私のところへ取材にくる記者の方の99%から「いつごろから政治家になる志があったのですか？」と質問されるのですが、元々は政治家になるつもりなんてなかったのです。大学を卒業する前に友人たちと「将来何になりたい？」という話になったのですが、それぞれ「放送局で勤めたい」とか「弁護士になりたい」とか「結婚しないでずっと働いていく」とか色々な意見があった中で私は、「早く結婚して6人子供が欲しい」と言ったんです。そんな感じだったんですよ。</p>
<h3>それは知らなかったです。「良妻賢母」ということですか。</h3>
<p>良妻賢母なんて思わなかったけど、賑やかなお家って良いなあと思ったんですよ。「自分が１人っ子だから子どもは6人」なんていう単純な発想。実のところは、そのとき自分の職業観を持っていなかっただけなのです。できれば学問を続けたかったのだけれども、残念なことに、私は父がおらず、ちょうど母が失業して経済的に働かなきゃならない状況だったのです。だから夢を持つというよりも淡々としていたし、自分で「何になりたい」という志を持っていなかったのですね。</p>
<h3>そうなんですか！</h3>
<p>本当は若い頃から自分のキャリアについて計画を持っている方がいいですよ。高校生ぐらいから人生設計を考えている人もいるから、いま大学生の方もその方がいいとは思います。<br />私は漠然とした将来像しかなかったけど、あえて言うなら研究者になりたかったんです。マックス・ウェーバーを学んでいて、そこから文化人類学に興味を持ったのですが、当時、人類学を学ぶには都立大くらいしかありませんでした。それでまず聴講生として都立大に行くことにしたのです。</p>
<p>ただ、私も食べていかなきゃならないので、アメリカ大使館で仕事をしていました。幸い、都立大は夜学があるから、大学には夜通いました。その後、TBSで働くことになったのですが、入社してからも、ある時期までは通い続けていました。</p>
<h3>TBS入社の経緯を教えてください。</h3>
<p>それが、すごく不思議なのですが・・・ちょうどTBSが創業のころ、昭和29年くらいに『婦人ニュース』というのが始まりました。それでTBSが女性キャスターを探しに、女子大学だけでなくあらゆる学校へ尋ねて来たそうです。私はすでに卒業していたんだけど、先生の何人かが「堂本さんがいい」と言っていたそうで、それである日、突然「試験を受けに来てくれませんか？」とTBSから電話がかかってきました。</p>
<h3>すごい転機ですね！</h3>
<p>行ってみたら、けっこうな数の人が試験を受けることになっていました。筆記試験やら、インタビューやら、いろいろ受けて、だんだん人数が減っていくのが分かりましたが、私は自分の結果にだいぶ手ごたえを感じていました。実はアメリカ大使館では、アルバイトでラジオ番組を作っていたのです。毎日、新聞の切抜きをするので、ほかの人よりも時事にはとても詳しくなっていたし、インタビューされても右から左へ答えられたのを今でも覚えています。これは受からなかったらおかしいなと思ったくらいです。</p>
<h3>アルバイトでの経験が役立ったんですね。</h3>
<p>友人には「あんなに文化人類学をやりたいと言っていたのに、テレビ局なんてまったく違うじゃない」と言われて、やっぱり受け身で仕事なんて選んじゃいけないのかもしれないなあって私も考えました。考えた末、お断りするつもりでTBSへ向かったのだけれど、そこで「あなたに決めました」と言われたのです。人間って奇妙なもので、大勢の中から選ばれると、なんとなく捨てるのはもったいないと思う。一瞬、頭の中で「どうしようかな」と迷ったのだけど、次の瞬間「よろしくお願いします」と言ってました。</p>
<h2>自分に隠された才能を他人が気付いてくれることもある</h2>
<h3>TBSではどんなお仕事をされていたんですか？</h3>
<p>実は、入社してからも未練がましく夜は都立大へ通っていました。自分の生涯としてはどっちを選ぶのがいいかなと思ったりして。勉強しはじめてみたら、ほかの学生はロシア語とかドイツ語とかできる人もいて、すごく進んでいるんです。私は「アメリカへ行って集中して勉強したほうがいいかな」と考えて、実際に準備も始めていました。ある日、会社の人に「本当は留学したかった」って話をしたら、「まずは社会人１年やってみて、やっぱりどうしても学者になりたかったらそれから辞めてもいいんじゃないの」と言われました。</p>
<h3>ずっと夜学に通われたんですか？</h3>
<p>試験は昼間だから、試験の日には休みをもらっていました。ところが、1957年10月4日の試験当日、都立大の駅にいたその時に「ロシアが衛星を飛ばす」っていうニュースがあって。試験に行くべきか会社に行くべきか迷って・・・そこで会社に電話かけたのが間違いで、「どうしましょうか」と聞いたら「いったいどこでなにボヤボヤしてるんだ」と言われて「はい！」ってすぐ電車に乗っちゃった。それきり試験は受けられなくて、このときに、報道の仕事をするなら大学に行くのは無理だな、と思ってあきらめました。</p>
<h3>それはだんだん報道の仕事が楽しくなってきたからですか？</h3>
<p>今になってわかることは第三者、つまり大学の先生が薦めたということや、TBSの人が私を選んだということも、向いている仕事を見つけるために必要だったということ。自分じゃなくてほかの人から見て、その分野に私は「向いている」と思われたってことよね。</p>
<h3>自分では気付かなかった才能というか。</h3>
<p>そうね、自分が思っている自分とは、違うところに自分の才能や能力があって、ほかの人がそれに気付く。そういうことが、時としてあるんですよね。あの場合が完全にそうだった。実際、働きはじめたら、ものすごくおもしろくなって、数ヶ月経つと、とてもやりがいを感じていました。それからどんどん夢中になって仕事していったんです。</p>
<h2>辛くても覚悟して取り組み続けた仕事が、法律改正につながった</h2>
<h3>いろいろな仕事に取り組まれたと思いますが、具体的にひとつ教えてください。</h3>
<p>入社以来、カメラマンをしたり記者クラブに行ったり、報道の中で経験した仕事は、どれもこれも退屈しなかった。私は何かひとつ疑問を持つとのめり込む癖があってね。40代になってからのめり込んだのが『ベビーホテル』の仕事だったのです。</p>
<h3>投書がきっかけだったと聞いていますが。</h3>
<p>そう、投書がきっかけで行ってみたら、これはなんか・・・最初のベビーホテルで子供を見て、車に乗った次の瞬間「これすごく深い文明的な問題があるような気がする」って言ったら、カメラマンも「僕もそう思う」って。感性の優れた良い仲間に恵まれていたのね。上司にも恵まれていた。「1ヶ月間ベビーホテルの実態調査をさせてくれ」と言って、私たち5人のスタッフはほかの仕事から完全に外してもらいました。</p>
<p>社外からは賞をもらったり、評価をいただいたりしたけれど、社内では「なんだあいつら、保育園のなかで変なことやって」という感じだった。行政じゃないのにそんなことをして、と。</p>
<p>それでも続けられたのは、デスクが偉かったんです。上層部からは年中「あんなのは辞めさせろ」と言われていたのを頑としてやめさせなかった。市川房枝さん（婦人運動家／政治家）に「数字がなきゃだめよ」と言われ、とにかく国会を説得しないと法律は変わらないから、調査報道をやりました。名調査マンに協力してもらって、非常に興味深い数字をどんどん出していったんです。</p>
<h3>やりがいがありそうですね。</h3>
<p>だけど、私たちの方もかなり疲労が重なっていた。子供を撮影するから低い姿勢が多くて厳しく、とうとうカメラマンが立てなくなって、もう無理だと思って、逆に自分から「辞めましょうか」とデスクのところに行きました。そうしたら「いま辞めたらこのキャンペーンはだめになるよ」と一言。それで局の玄関下りて「もう辞められない、私たちは」ってみんなに伝えた。スタッフは覚悟していたようで、それからは誰も愚痴を言わなくなった。みんな辛いのよ、夜中の仕事だから。辛いんだけど我慢して・・・</p>
<p>そうこうするうちに、厚生省の人が「TBSの作品を見せてください」って会社に来て、私は「勝った！」と思った。なぜ厚生省が来たかというと、国会で次から次へと質問が出始めたんです。当時はビデオなどなくて、新聞やビデオと違って放送を見逃したら分からないものだから、見に来るしかないわけです。局長以下が会社へ来たときは「しめた」と思いました。それで変わるんですよね。</p>
<p>新聞のキャンペーンで法律が変わることはあるけど、テレビでは新聞にある連載記事みたいなニュースがありませんでした。それが、このキャンペーンをやり始めた翌年の6月の通常国会で、児童福祉法が30年ぶりに改正されたんです。</p>
<h2>各党から立候補の誘いがあったけれど・・・</h2>
<h3>それが、政治の世界へのきっかけとなったのでしょうか？</h3>
<p>このキャンペーンのとき、数字を持って「法を改正して欲しい」と言って自民党から共産党まで、各党を駆けずり回ったんですよ。そしたらそれを見ていた人たちが「こいつは政治家に向いている」と思ったみたいで。ですから、最初の「選挙にでないか」というお誘いは、自民党と民主党と当時の社会党と3つの政党からでした。でも私は「冗談じゃない。仕事が軌道に乗り始めて、やっと好きなテレビの仕事ができる雰囲気になってきたときに辞められるもんですか」と思ってお断りしたの。</p>
<h3>みなさん、納得してあきらめてくれたんですか？</h3>
<p>どういうわけか、3年ごとに立候補しないかって誘いにくるわけです。仕事では脂の乗っていた時期なので、いろんなものを作っていて、だからお断りするのだけど、3年経つとまたお誘いがある。それで最後に声をかけてきたのが、土井たか子さん。すでに７人くらいに断られていたそうですが、私も最初は断ってしまいました。</p>
<p>そんなとき、天安門事件がありました。通常、海外の急な出張には若い人が行くのだけど、なぜかそのときは誰もいなくて、私が行くことになって、それで飛行場から「色々お誘いいただいているけれど、私これから中国の取材に行くので、あきらめてください」というFAXを土井事務所へ送って出かけました。</p>
<h2>香港で目にした人間のパワー</h2>
<p>香港に着いたら、100万人のデモでした。あれは凄かった。人間が自由を求めるってことはどういうことかというのを間近で見て・・・本当にゾクゾクしました。それこそ、5～6歳の子供もゼッケンつけているし、おじいさんもおばあさんも杖ついて出てくるし。もう、通りという通りは人で埋まっているわけで、人間のパワーというか、日本では感じられない何かを感じて帰国しました。</p>
<p>その放送が終わって部屋に帰ったら「土井さんから電話」って。なにかと思えば「まだあなたの返事を待っているの」と言われて、ビックリ。この時もTBSの時と同じね。１秒ぐらい考えて「検討してみます」と返事をしたの。</p>
<h2>「受け身」ではなく「天命」で進んできた</h2>
<p>以前はインタビューされると「きっかけは受け身だったんですよ」と言っていたのですが、最近は「受け身」という言葉は使わないようにしています。というのも、テレビで『大河の一滴』の五木寛之さんが「自分は自ら何かに突き進んできた人間だ。だけどすべて天命だと思う」と言うのを聞いて、「ああ、そうなんだ」って思ったから。</p>
<p>私の場合、自分の人生の大きな転機は、TBS、国会議員、そしてこの知事選で3回目です。自分からは突き進まなかったけど、なんか道があって、それが天命で・・・「受け身」という言葉よりずっといい言葉だと思う。だから「天命」として進んでいるんだと、最近はとても素直に思うようになりました。</p>
<h3>知事になられたのも「天命」だと。では、それまでの経験がいま役に立っているのでしょうか？</h3>
<p>会社で30年働いて、そのあとの50代以後に立候補したのだから自分は政治家としてはかなり奥手だと思う。でも、TBSでのジャーナリストとしての30年間と、国会議員の12年間の経験がなかったら、こんな難しい時代に知事はできませんでした。しかもラッキーなことに、私には野党と与党どちらの経験もあるから、霞ヶ関や永田町の多くの人が私のことを知っています。不思議なことに、国会議員のころ激しく議論を闘わせた人に限ってよくしてくれたりするんですよ。</p>
<h2>仕事によって「人間」は拓かれる（ひらかれる）</h2>
<p>だから私の人生そのものが言ってみれば天命的なところがあるのかなと思っています。でも、結局いつもみなさんに聞かれるのよね、「いつから政治家を志したんですか」って。</p>
<h3>（笑）はい。聞いてしまうところでした。</h3>
<p>そういう人もいるかもしれない。最初から政治家を志したり、ジャーナリストを志したり、バイオリニストを志したり。志すことも大事だと思う。でも志がないからといって、あんまり不安がらないほうがいいと思う。与えられたところで夢中になって一生懸命やることが、結局その人の可能性を拓いていく、そういうことかなと思いますね。「仕事が人を拓く」ってことは間違いなくあるから。</p>
<h3>堂本さんもTBSで夢中になって動いたことが、現在へ繋がっていますものね。</h3>
<p>就職に関して言えば、私の場合、比較的みんながいいと思うところにスパッと就職できたから、例外かもしれない。ただ、そういうコースだけが、最適な仕事の場かといったらそうじゃない。たとえば、女性だとキャスターになりたい人などは多いけど、最初から道を決めることもない。また、放送だとか新聞だとか、大手の会社に入ることが良いことだと考えなくてもいい、そう思いますよ。</p>
<h3>自分で可能性を狭めるべきではないですよね。</h3>
<p>これからは、自分で仕事をクリエイトするってこともすごく大事。焦らないで仕事をしているときには、とてもいい感性で仕事ができるし、そうすることによって道は拓けてくる。特に女性の場合そういうことが多いかも知れない。私は政治家になろうなんてまったく思っていなかったけれど、積極的に「どういう道を切り拓いていくのか」と考えていくのはとても大事なことだと思います。</p>
<h2>女性自身も考え方を変える必要がある</h2>
<h3>まだまだ女性が活躍できない現状がありますよね。社会、企業、それから女性自身がどう変わっていくといいと思いますか？</h3>
<p>やはり世の中全体が変わらなきゃダメです。いくら女性だけが努力しても「女は家庭に帰れ」みたいな専業主婦的なことを男性が思っているあいだは難しい。一方で、女性自身も変わらないと。たとえば、子育ての段階から、自分自身の考え方や発想自体を大きく変えていかないとダメじゃないかと思いますね。</p>
<h3>自分の子供から変えていくとなると時間がかかりそうですよね。</h3>
<p>でもね、それはとても大事なことですよね。会社や社会の中でも同じ。男性と女性を平等に教育してないと思う。県庁でも、女性が妊娠・出産して戻って来ると、とても楽なポジションに置きがちです。創造性の発揮できるような、あるいは人を大勢使うようなところに配置しない。というか、そもそもそういうところに配置できるように、女性を育てていないということもあります。また、そこのところで、女の人も安住しちゃうとダメですよね。</p>
<h3>女性だけではなく、世の中全体で変化が求められているのですね。</h3>
<p>信じられないほど日本はそういう変化が遅れている。変化が遅れていることで、やっぱりこの国のいろんな土台の基本的なところで力を削いでいるような気がしますよね。もっと男女が一緒に関わってやっていかないと。</p>
<h2>21世紀は、本当の意味での「多様な価値観」を目指すべき</h2>
<h3>最近は「ダイバーシティ：多様性」を軸に変化を進める企業もでてきました。</h3>
<p>マネージメントの世界でダイバーシティ・マネージメントっていうのがあります。アメリカで住民権運動のあと、白人だけではなく、黒人とかヒスパニックとかいろんな人種を雇うように決められて、雇わない会社は高額の罰金とられたわけです。だから会社としては、罰金をとられないためにマイノリティを雇用したわけですが、結果として、多様な人種を雇ったほうが成果が上がることがわかってくるわけです。いまの世の中、消費者も多様だから多様な人の発想で物を創ったりマーケティングしたりしたほうがいいってことで、ダイバーシティ・マネージメントという考え方が出てきました。私が千葉県で一番やりたいのは、これは造語ですが「ダイバーシティ・ガバナンス」なんです。</p>
<h3>具体的にはどういうものですか？</h3>
<p>いろんな価値観、多様な価値観を融合した形での県政運営がしたいのです。<br />県政運営を下からボトムアップでやるには、みんなが意見言わなきゃいけない。ところが、その意見を言うのが男性ばかりでは、社会全体の声を反映しないわけです。社会全体をみると、女性もいて、高齢者もいて、若いカップルもいて、障害者もいて、外国人もいて・・・そういうのが本当の姿ですよね。</p>
<h3>なるほど、確かにそうです。</h3>
<p>男性ばかりで考えていてもダメです。男性だけでも、もしかしたら観念的には、高齢者の問題など分かっているかもしれない。だけど、たとえば実際に、どういう障害者がいて、どういう子供たちが虐待を受けていて、どういうことを学校で子供たちが困っていて・・・それらすべて、大人の男性たちだけで分かるかといったら、分からないですよね。</p>
<h3>それで「ダイバーシティ・ガバナンス」なんですね。</h3>
<p>本当の意味での「ダイバーシティ・ガバナンス」というのは、女性の参加だけではなく、多様なセクターの参加って言うのが大切なのだと思います。だから、まずは大きく「多様な価値観」だと。同じことは国レベルでも言えます。</p>
<p>それから、多様な価値観を認めていくにあたって、差別をなくしていくことも大切です。日本における差別には主に、外国人に対するもの、女性に対するもの、障害者に対するものがありますが、３つともとても強い差別です。大きい柱の１つが、女性に対する差別だと思います。これからの21世紀というのは、そういう差別をなくしていかないと。</p>
<h3>長いスパンで見たとき、現状を変えていくのは、私たち女性自身なんですね。<br />学生時代の貴重な経験から、現在推進されている「ダイバーシティ・ガバナンス」のお話まで、これから社会に出る女子学生の皆さんにも、大変興味深い内容だったと思います。<br />今日はお忙しい中、お時間いただきありがとうございました。</h3>
<p>インタビューを終えて（ ハナジョブスタッフ）</p>
<p>やりたいことが見つからない・・・そう悩んでいるハナジョも少なくないでしょう。<br />やりたいことが決まっていない人は、色々な仕事ができる会社を選ぶという方法もあります。 <br />目の前の仕事に対して力を尽くすことで、堂本さんのように、仕事を通して才能を花開かせていくことができるはずです。「仕事が人を拓く」いい言葉ですね。<br />自分には無限の可能性があるのだと、信じるところからスタートしましょう。本当に無限の可能性があるんですから！</p>
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		<title>「やりたいことは何か」を掴むことが一番大事ですよね。私はそこに尽きるような気がする。（編集者）</title>
		<link>https://hanajob.jp/workstyle001/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ハナジョブ学生記者]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 09 Aug 2008 13:36:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[先輩インタビュー]]></category>
		<category><![CDATA[その他（業種）]]></category>
		<category><![CDATA[編集・記者]]></category>
		<category><![CDATA[編集・記者（職種）]]></category>
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					<description><![CDATA[40年以上も現役で編集者を続けている、松井晴子さん。若いころから日本を代表する建築家と交流があり、建築家からの信頼も厚い。ベテランではあるけれども気さくで、とにかく仕事を楽しんでいるというのが印象的だ。いかにして編集の仕 [...]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>40年以上も現役で編集者を続けている、松井晴子さん。若いころから日本を代表する建築家と交流があり、建築家からの信頼も厚い。ベテランではあるけれども気さくで、とにかく仕事を楽しんでいるというのが印象的だ。いかにして編集の仕事に就いたのか、仕事を続ける原動力は何か、子育てとの両立はいかにして克服したのか・・・、働く女性の大先輩に、いざインタビュー！（2008年8月時点の情報です）</p>
</blockquote>
<div class="redB">
<h2>コンプレックスから導きだした、編集の仕事</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">現在の仕事に就いた経緯を教えていただけますか？</h3>
<p>高校を卒業して入ったのが、桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科（当時）、といって、バウハウスの系譜を真っ当に受け継いできているような学校だったんです。服飾以外のデザインはなんでも・・・彫刻、写真、デッサン、色彩構成理論・・・すべてやらされるんですね。桑沢は3年間あるんですが、最初180人いたのが、2年で60人落とされて120人になり、3年目の研究科には60人しか残れないんですね（当時）。私は2年から住宅インテリアのコースに入るんだけど、1週間のうち3日は徹夜しないと課題が追い付かない。なんとかついていって3年間残りました。</p>
<p>研究科まで残った同級生は12人。私を除いて全員、デザイン事務所か建築設計事務所に就職したんです。みんな、デザインすることを職業に選んでいるんですよ。ところが、<strong>私は3年の終わり頃になって、自分にはデザインが向いてないと思って、すごく悩んだんです。というのはね、コンプレックスがあったんですよ。</strong>どんな課題でも人よりうまくいかない。一体全体、なんで私はこんな学校に入っちゃったんだろうって。</p>
<p>それで、原点に戻ってみると、子供のころから住宅が好きだったんですよね。誰かの家に行ってはその家の図面を描いてみたり、奈良京都に行けば建築を見て歩いたり。それに加えて、本も読むことが好き。それなら、<strong>出版社で建築関係の本を編集するのが向いてるんじゃないかなあと思ったんです。</strong></p>
</div>
<div class="redB">
<h2>必死になって学んだ、専門誌時代</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">なるほど、それで編集の仕事を選んだんですね。仕事はどのようにして見つけたんですか？</h3>
<p>学生時代に婦人画報社（現・アシェット婦人画報社）の「モダンリビング」という雑誌で、住宅の図面を描くアルバイトをしていたんです。それで、編集部の人に編集の仕事がしたいという話をしたら、うちの編集部に来ない？って言ってくれたんですね。じゃあ、まあちょっと半年くらい行ってみるかなと思って、「モダンリビング」の編集部に入れてもらったんです。そこで宮脇檀さん（日本を代表する建築家）に出会ったりするんだけど、その当時は生意気でね、仕事に物足りなさを感じて、もっと勉強したいなって思い始めたんですよ。</p>
<p>そんなとき、建築専門誌の編集部に入ってみたら？って言ってくれた人がいてね。貧乏な出版社だったんだけど、<strong>ものすごく忙しくて、1か月のうち1週間は徹夜してましたね。</strong>家に帰らず。金魚のフンみたいに先輩の編集者にくっついて建築家に会ったり、こんな本読みなさいって言われたら、はいって言って一生懸命読んでね、翻訳本をやりなさいって言われたら英語もやったりしてね。そういうことを教えてくれた編集者が、実は私の夫になる人なんです（編集者・評論家の植田実氏）。</p>
</div>
<div class="redB">
<h2>子育てを通して、自分のやりたいことが見えてきた</h2>
</div>
<div class="box">
<p>1968年に結婚することになったんですが、ちょうど夫が「都市住宅」という新しい雑誌の編集長として呼ばれたんですよ。私もそれを機に出版社を辞めて、フリーの立場で創刊から夫の仕事を手伝いました。その後、人からの紹介で、建築ジャーナリズムを中心にした編集事務所に就職したんです。そこに2年ほどいて建築年鑑や単行本の編集をしていたんだけど、経営が厳しくなって、だめになっちゃって。</p>
<p>期せずしてちょうど妊娠がわかったんです。それで、子供が生まれたころから、フリーで本をまとめる仕事を始めました。そんなにハードなこともできないですからね。</p>
<h3 class="red">子供が生まれて、どんな変化がありましたか？</h3>
<p>子供を保育園に預けると地域のお母さんとの繋がりが出てくるんですよ。それまでは、デザインとか建築の抽象的な話をしたり、前衛的なところに引っ張られていて、地に足がついてないわけ。それでも超一流の人たちと付き合うわけですから、思いっきり背伸びしていたんですよ。でも、<strong>子供を産んでどんどんどんどん足が下に沈んでくるんです。目線がだんだん低くなっていくわけ。</strong>そうすると、ああ、こういう議論ってリアリティないんだ、お母さんたちに建築論うんぬんて言ったって意味がないんだ。そういうことを自分で感じちゃうわけですね。</p>
<h3 class="red">そうですね、わかります。</h3>
<p>それで、もうちょっと自分の目線に合っていること、つまり、衣食住で言ったら私は住に興味があるわけだから、住がらみで編集の仕事をしていくのが自然かなって。子供を育てるって具体的だから、生活と仕事は切り離せないんですよ。だから専門家向けの仕事をするよりは、一般の人向けに建築の面白さとか、暮らしと住宅がどう関わっているのかとか、住宅から連なる「街と建物」がどう関連を持つのかとか、つまり、<strong>建築を一般の人に近づける、橋渡しの仕事が自分には向いてると思ったんです。</strong></p>
<div class="redB">
<h2>「身につけた学問を必ず社会に生かしなさい」</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">専業主婦が多い時代ですよね？　女性が働くことに対してどう考えていましたか？</h3>
<p>進学率の高い高校だったから、同級生のほとんどが4年制の大学に進学していて、キャリアとしての職業を持った人が半分くらいはいました。男女共学で、高校時代から男女対等な感じでやってきたから、職業を持つというのは、みんな普通に考えてましたね。で、私が進んだ学校、桑沢っていうのは一種の職業学校ですからね、出るとやっぱり仕事に就くっていうのが当たり前だったから。研究科まで残った12人のうち、女性が5人男性が7人だったかな。</p>
<h3 class="red">じゃあ、常に男女が対等という環境にいたわけですね。</h3>
<p>そうそう、だからよく聞かれるんだけどね、<strong>女性蔑視とか、「女だから」って言われたことないんですよ。</strong>鈍感だから感じてないだけかもしれないけど（笑）、不思議なことに男女差別を受けたという記憶がないんですよね。女だからうんぬんって言われたことないんです。比較的女性が多い分野でもありましたから。今でも、関わっている編集者は女性が多いですよね。そういう分野だったから、あまり感じなかったと思うんですよね。</p>
<h3 class="red">男の人に負けないようにがんばろうって思っていたわけでもなく？</h3>
<p>全然、全然！それこそ、子供産んだとたんに地べたに足がついちゃったわけだから、自分のペースで自分の感覚を信じようかなって。背伸びしたくないと。生活感のないこと、頭でっかちのことばっかり言っている建築界に距離を感じちゃったわけだから。抽象的なものを議論していくっていうのに向いてなかったんだと思うんですよね。実感的なことしか喋れなかったと思うのね。建築家の書く文章ってすごく難しいのよ（笑）。</p>
<h3 class="red">専門家はいいんだろうけど、一般の人は困りますよね。特に家建てるとなると女性が中心になることが多いでしょう？</h3>
<p>いや、いまは半々ですよ。男の人が中心になってつくる家っていうのも増えてきてる。建築家を決めるのも旦那っていうね。だいぶそれは変わってきてる。昔と比べると。だからなんていうか<strong>、男女の役割って変わってきてますね。家のことをやる男性も増えてきて、特殊じゃなくなってきてるんですよ。</strong></p>
<p class="red">いろんな生き方があるって知らない学生さんも多いんですよね。どうしても母親の生き方がモデルになってしまうから。母親が専業主婦だと、将来は自分も専業主婦、というような。</p>
<p>そういうことでいうとね、うちは父が科学者だったんですよ。それで戦後、自分で研究所を設立するんだけど、事業家じゃないもんだから失敗してすごい借金を背負っちゃうわけですよ。それで家族五人がどん底につきおとされるんです。さらに父が結核を病んじゃったんですよ。しかも、祖母まで母にくっついて離れない。だから家族6人の生活が母の肩にのしかかってきたわけ。家族6人住み込みで、母が懸命に働いて。でもね、貧しいけれども、<strong>「勉強にはお金は出します。がんばって大学までは行きなさい。大学でたら学んだことを社会で生かしなさい。自立しなさい」って母は言うんですよ。</strong></p>
<p>つまり母は、自分は大学まで行ってないから仕事を選べなかった。もし、大学まで行ってたら、もっと別の仕事があった。これからの女性はとにかく学問をちゃんと身につけ、身につけた学問を必ず社会に生かしなさい、というのが、母の教えだったんですよ。そう考えると、貧しさが働き続けることの原動力になっていたかもしれない。</p>
<p>親の背中を見て育つっていう点では、私は両親に感謝してますよね。両親がそういう生き方だったから、子供には教育を受けさせて、経済力も含めて自立できるようにしておいた方がいいと。夫が働けなくなったら、妻がバトンタッチして働きなさいってことね（笑）。そういう親を見てたから、それが普通だと思ってたから。大きいですよね、親の影響って。</p>
<p>もう一つ言われたのが、結婚しなさい、子供産みなさいって。そこまでは守りますってことで、三姉妹、そこまでは守ったんですよ（笑）。一応、言われたから仕方ないねって。ごく当り前にしなくちゃいけないことだと思ってたから、気負いもなく。</p>
<blockquote>
<p>育児をしながら、仲間の編集者3人と「有限会社無限」を設立。3～4年は創設メンバーの男性2人と同じペースでやっていたが、当時、お子さんは小学生。シッターさんに来てもらっていたものの、毎日終電というわけにもいかない。そこで、ペースを落としながら、仕事を続けることに。その後、インテリア雑誌の編集長の仕事を引き受けたが、会社の事情に振り回され、殆どタクシーで帰る毎日。娘は高校生になっていたものの、さすがによくないと思い、1年で断念。</p>
<p>その後、「有限会社無限」を抜けて、「有限会社松井編集室」を設立した。人を雇う以上、給料はちゃんとしようと、スタッフの年収もある程度の水準を維持。しかも、「仕事だけが人生じゃない。われわれの場合、見ることも仕事のうち」と、年に1回は海外旅行に行かせていたという。しかし、バブル崩壊後は、その水準を維持するのが厳しくなってしまった。そのため、スタッフに独立してもらい、一人で会社を続けた。そして、2007年に個人に戻り、現在はフリーランスで編集の仕事を続けている。</p>
</blockquote>
<div class="redB">
<h2>改めて自分のテーマが見えてきた</h2>
</div>
<div class="box">
<h3 class="red">現在はどんなお仕事をされているんですか？</h3>
<p>例えば、40年来親しく付き合っている女性建築家（象設計集団・富田玲子さん）がいるんですけど、彼女の考えに共感するものがずっとあって、いつか彼女の話を本にできないかと思ってたのね。それで、2年近く毎月1回、２～３時間、テーマを決めて話を聞いて、まとめていった。その後、ある人の紹介でみすず書房に持って行ったら、本にするってOKが出たんですよ。</p>
<p>つまり、私の仕事っていうのは、<strong>題材を見つけて、企画を立てて、聞き書きして自分で文章作って、それをどこかの出版社に売り込む</strong>というところまでやるんですよ。それで本にしていくという。人に書いてもらうこともむろんあります。編集といってもフリーの場合は、そこまでやらないと成果物まで上がってこないんですね。</p>
<p>何かやりたいことがあったら、出版社で仕事を重ねていった方がいいと思う。私の場合、自分の実現したいことを回り道しながらやってるところもあるんですよ。だから、フリーの編集者はおススメではないんです（笑）、私の中では。やりたいことをやるのに、社員編集者の何倍ものエネルギーがいるんですよ。</p>
<h3 class="red">最初から好きなこと（建築と本）を仕事にできたというのは、うらやましいですね。</h3>
<p><strong>要は消去法だったんですよ、ほかに能力がなかったからで。結局、本が好き、建築が好きって言うと、もうこれしか選べることがなかったのね。</strong>ところが今、ちょっと変わってきたんですよ。ある雑誌から、「20年30年経った、建築家の設計した家がどう住み継がれているか」ということをテーマにやってみませんかと声かけていただいて、これぞ私のテーマって思ったの。</p>
<p><strong>結局、私がこの道をずーっとやってきて、欠かさず関心を持っていたのが住宅なんですよね</strong>。これは嬉しいと思って。それこそ、若い頃出会った建築家に「昔の松井でございますが、あのときのあの住宅は今どうなっていますでしょうか？」って話ができるわけじゃない（笑）？</p>
<h3 class="red">そうですね、長く続けている松井さんだからこそできることですよね。</h3>
<p>その企画では、2年間で24人の建築家に会って24件の住宅を取材しました。雑誌に連載したあと、本にまとめて出版したんですね。「建築家が建てた幸福な家」というタイトルで。売れるはずないと思っていたのに、3か月で初版が売り切れて、瞬く間に3刷りまで行ったんですよ。でね、世の中の人がこんなことにこんなに関心があったのかと、実は私もびっくりしたんです。</p>
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<p>その後、「建築知識」という月刊誌で続編の連載を開始した。専門家向けの雑誌ということもあり、その当時の実験住宅的なもので、今でも活躍している建築家24名を人選。2007年に単行本として出版された。</p>
<p>同時に「心地よく、これから何年も住める住宅」をテーマに「住宅の手触り」という企画を立て、「新しい住まいの設計」で連載。「手触りのいい家だから、永く住み続けられる」という論理に繋がっている。中村好文さん、永田昌民さんなどを含めて12人を取りあげ、それぞれ2件ずつを取材。2007年に「住宅の手触り-12人の建築家による、24軒の手触りのいい家」というタイトルで出版された。</p>
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<h3 class="red">時代に求められているものだったんですね。とても興味深いです。</h3>
<p>現在は、戦前から残っている建物の保存にかかわる人々をテーマに連載をやっています。東京って、ものすごい勢いで建て替わって行くんですよね。全部が全部新しくなるっていうのは異常なことでね。やっぱりいいものは残していきたいなっていう。年々そういう想いが強くなってきているんです。</p>
<p><strong>自分が今までやってきたことや関わってきた人たちを記録にとどめておく、そういう時期に来てるんだと思います。</strong></p>
<h3 class="red">積み重なって、積み重なって今があるという感じですね。</h3>
<p>いや、こうやって話すとそうなんだけど、フリーランスって大変なんですよ。仕事がない時もあるんです。もうね、本当に辞めようかなと思ったこともあります。でも、<strong>主婦というのが全然ピンとこなかったの。家のことだけするっていうのが自分の中でイメージがわかなかったんですね。</strong>子供は保育園に行ってたし、学校に行けば学校の生活があるし、中学に行けば親より友達だし、うちの旦那ってのは手がかからなくて自分で完璧に何でもできる人だから。そうなると、私は一体じゃあなにすればいいの？って感じで。で、遊びまくるかっていうと、遊びまくるほど遊び人じゃないんですよね、これが（笑）変に真面目なところがあったりして。</p>
<h3 class="red">ははは！</h3>
<p>そうするとやっぱり仕事がない時でも、しょうがないか本でも読むかって、本読んでたりしてね。ずるずるやってきたとう感じで、決していつもいい状態を保っていたわけじゃないんですよ。<strong>ホントに、ちょっと繋がってるものを捨てなかったっていうだけですよね。</strong></p>
<div class="redB">
<h2>人との出会いが自分を育てる</h2>
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<div class="box">
<h3 class="red">どう自分の可能性を広げていけばいいのか、悩んでいる学生さんも多いと思うのですが。</h3>
<p>うんうん、そうね。自分の若い頃を考えても、本当にわからなかったもの。学校出たての頃って、世の中どういう仕組みになっているのかとか、本当に何も分からないんですよね。何をやったらいいのかわからない、という感じですもんね。</p>
<p>でもね、<strong>結局はね、どういう人に出会うかっていうのかが大きくて・・・</strong>恥ずかしいんだけど、ここまでやって来られたっていうのは、先輩に、今の亭主がいたからなんですよ。いろんな世界を開いてくれたんですよ。こういう本を読んだ方がいいんだよとか、こういうふうにものを見た方がいいんだよとか、命令口調で言う人ではないんですよ。どこかに連れて行って、ここいいよね？とか言ってくれるんで、そっかそっかみたいな感じで。</p>
<p>人との出会いが大きかったと思いますね。亭主だけじゃなくて、ほかにもいろんな人に会っていくわけじゃない？さっき言った建築家の人とか、彼女の作ったものを見たりしてだんだんわかってきたりね。いい人に出会うことで、自分の世界が徐々に構築されていく。人からの刺激って、私は本当に大きかった。</p>
<p>自分なんてほんとちっぽけなものでね。誰かが自分の中の「かけら」みたいなものを引き出してくれると、自分で努力して大きくしていくことができる。だから、<strong>スキルも大事かもしれないけど、むしろ、いい人に出会える場を自分で切り開いていく力の方が大事だと思いますよね。</strong></p>
</div>
<div class="redB">
<h2>好きなことを仕事にする</h2>
</div>
<div class="box">
<p>今は高学歴になっているから、皆さん知識もあるし、スキルもあるし、語学もできるけど、<strong>「やりたいことは何か」を掴むことが一番大事ですよね。私はそこに尽きるような気がする。</strong>自分でやりたいと思っていることなら、大変なときでも、好きなんだからもうちょっと我慢しようかなって、我慢が出来るんですよ。</p>
<h3 class="red">好きなことを見つけるのに苦労してる学生さんも多いと思うのですが。</h3>
<p>身近に何かあると思うんだけどね。ちょっと考えてみると。私は本当に子供時代から住宅が好きだったんですよね。それで飽きずに、好きをそのまま仕事にしちゃったんですけどね。</p>
<p>建築以外にもね、旅が好きだったのね。それで、松井編集室で一人になったときに、企画を出して通ったのが、「世界の建築と街並み」という本なの。ヨーロッパとアメリカ編で６巻。元々、世界の街並みや建築を見るのが好きで、年に2回くらいは海外に行ってたんですよね。写真も好きで撮りためてて。これを活用できないかなって企画を作ったんですよ。大変だったけど、好きなことが仕事に繋がって、今まで投資した分も少しは回収できたかなっていう（笑）</p>
<h3 class="red">お仕事、ほんとに楽しそうですよね（笑）</h3>
<p>人生楽しくなきゃ、何の意味があるのよってことでしょ？（笑）もちろん、楽しくないことはありますよ。「いいですね、楽しそうですね、いいことばっかりやって」なんて言われるけど、仕事はものすごく大変ですよ。苦労はたくさんあります。人には言えないこともね。だけどね、いやな分野でいやいや本を作ってるわけじゃなくて、<strong>好きな分野で、自分が心躍るから、こういう本にしたいって思ってやっているわけだから。</strong></p>
<h3 class="red">好きなことなら、ちょっとくらいの苦労は苦労だって思わないですよね？</h3>
<p>そうそう、思わない、思わない！仕事というのは、いい会社に入ることでもないし・・・よくいるじゃない？「どこどこ会社入ったんですよ、うちの娘は」って。「あら、よかったですね」なんて言うけど、半分は「どこの会社に入るより何をするかなんだけどな」って思うんですよ。自分なりに、どんなことをそこで生かせるかっていうね。</p>
<p>だからブランドで仕事を決めるんじゃなくて、<strong>どんな小さくて名の知れない会社でも、自分が好きなことで、将来ずっと続けられるってことを見つけられるんだったら、それをやるのが一番幸せだと思うんですよ。</strong>何やっても、どんな職業選んでもそうだと思うんですよね。それと、仕事が面白いって思えるなら、子育てで大変な時期があっても、なんとか持続して先に繋げていくことが大事だと思います。</p>
<p class="red">本当ですね。継続は力なりです。私も日々実感しています。今日はお忙しい中、たくさんのお話を聞かせていただいてありがとうございました！学生さんにも、仕事って楽しいんだ、続けることでこんなに世界が広がるんだってことをわかってもらえたのではないかと思います。</p>
<h3 class="redB">インタビューを終えて（ ハナジョブスタッフ）</h3>
<p>娘さんは子育てをしながら広告代理店で働いているそうです。「自分のやりたいことを仕事にし、楽しみながら持続していく」という松井さんの生き方は、間違いなく娘さんに伝わっているのでしょう。一つの仕事をやり続けること、人を雇って会社を経営して行くこと、そして家庭生活を送って行くこと。その渦中にいるときは、本当に苦労があったと思います。でも、やり続けることで、仕事は広がり深くなり、そしてさらに面白くなる。そんなことを、松井さんから教わりました。</p>
<p>学生の皆さんが、すぐにやりたいことを見つけるのは難しいかもしれません。アンテナを広げて、いろいろな人の話を聞いてみましょう。面白そうだな、やってみたいな！という仕事が必ずあるはずです。それをきっかけに、自分の可能性を広げて行ってください。</p>
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